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2009/07/13

神に仕える変革

自分の魂を憎むということについて
 主イエスは、「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る」と言われた。これは、永遠の世界のことを言われたのであって、「命を失う」とは、「永遠の死」のことである。「永遠の死」とは何であろうか。それは、「永遠に渡って死に続けること」、「蛆が尽きず、火も消えることのないところで、永遠に苦しみ続けること」である。そしてそれは、実に「この世において、自分の命すなわち魂を愛したことの結果」なのである。
 そのように私たちは、自分の持って生まれた知恵と力では、いくら魂を生かそうとしても無駄なのであり、生きるためのすべての努力は、返って逆効果となってしまうのである。そしてそのことに私たち自身も多少気がついていて、多少なりとも向上心のある人は、自分の状態が、かの純粋な光から遠く隔たっているのを感じて、それを悲しみ嘆くのであり、さらに彼は、自分の身体の限界性から、それを纏いつつ生きることの重荷に、大いなる矛盾をさえ感じるのである。
 そしてそのように、自己の内に人間存在の本質的な矛盾を懐胎していることに気がついてしまった者は、ときにその安易な解消策として、自虐的な行為に走ることにもなるのだろう。しかし、この自虐的な衝動は、本来、自分の身体ではなく、むしろ魂へと向けられるべきものなのである。というのは、身体は作り替えることができないが、魂は神により、再び新しく生まれるということが可能であるばかりか、むしろそれが必要なことであり、そのためには、魂の内の古い性質が死に絶えることが必要だからである。そして、魂とはまた自分自身でもあるので、これが根本から変革されるためには、それが自分自身の変革であるということから、そこに大いなる苦痛が伴うことにもなるのである。というのは、そもそも自己の変革というものは、自己の現在のあり方を根本的に否定することになり得るからであり、これがまさに「自分の魂を憎む」ということにほかならないのである。さらにキリスト教的には、生まれながらの自己にとって、この変革すなわち新生が必須なのであり、それが180度の転換であることから、生来の自己の完全な否定とならざるを得ず、それは文字通り「自分の魂を憎む」ということになるのである。
 この「自分の魂を憎む」ことにより初めて、生まれながらの自己は、それまでの自閉症的な状態から脱し、自己以外の主体との本質的な関係に入る可能性を獲得するのである。そして、この「自己以外の主体」の内で最大のものは神であり、魂はこの神との関係において他の主体と関わるのである。魂が自分自身を憎むことにより、神との本質的な関係を回復するとき、魂は、神が慈しみをもってすべての被造物へ発出するその原初へ、はじまりへと入り来ることを許される。そしてそこにおいて魂は、すべての事物を神の内で、それも、すべての事物があるようなその自然的純粋さの内においてではなく、それらが神のうちにあるような純粋な単純性の内でつかむのである。そのとき初めて、「だれにもまして美しいおとめよ、出てゆき、立ち去りなさい」と雅歌に歌われているように、魂は真に自由なものとなり、神から創造された、その本来の美しさの内に神に仕えるものされるのである。

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