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2009/07/08

神に仕える報酬

神のために神を捨て去るということについて
 神は聖書の中に、ご自身を恵み深いお方として啓示しておられる。神は、恵もうと思う者を一方的に選び、約束を与え、その保証として契約を結び、それを実現に至らせられる。それは、旧約聖書におけるアブラハムからモーセ、そしてヨシュアに至る約束の地獲得の歴史に現されている。
 しかし、これらのことが文字通り成就した後の歴史においては、神はさらにすばらしいものをご自身の民イスラエルに与えようとされたのである。それは、ダビデが張った賛美の幕屋とソロモンが建設した神殿の内に啓示された神の臨在を通して、ご自身をイスラエル民族に与えるということなのである。しかしそれは、彼らの背信によるバビロン捕囚により、一時挫折してしまうのであるが、再び時至り、神がご自身の御子を地上に遣わされるに及んで、歴史を通して絶えることなく流れ続けていた、神の大いなる愛が人類全体に完全な形で啓示されるに至ったのである。
 そしてこれらの外的な啓示は、そのすぐ後に起こった聖霊の傾注により、内的でさらに完全な啓示として、信仰者個人々々に開示されたのである。それによると、真の約束の地とは、神の一人子イエス・キリストであり、彼を得る者は、彼と共に万物をも相続するということにほかならない。そして、これこそがアダムから始まる人類の創造と堕落、選びと救済史における到達点なのである。
 しかし今日に至っても、私たちの心には完全な平安はなく、私たちは未だに約束の地を手にしてはいない。それでは、私たちの受けるべき約束の地は、どこにあるのか。それはまさに、私たちの内におられる神ご自身なのであり、そのまことの神との真の関係に至るべき私たちの心の王国のことなのである。そして、神が老年になったヨシュアに言われたように、私たちの征服すべき地は、私たちの心の王国の中に、なお多く残されたままなのである。
 しかし、キリストが十字架上で「完了した」と言われたように、すべての購いの業は、すでにキリストによって完成したのであり、私たちはすでにキリストと共に戦いの勝利者となっているのである。そこで、エックハルトが言うように、私たちには神からの大いなる力が与えられており、キリストの勝ち取られた勝利により、私たちは、自分の心の王国において、エペソ人への手紙に記されているような霊的な武具を身につけて、出て行く所どこででも神により勝利を得ることができるのである。そして、かつて信仰の父アブラハムやイスラエル民族がその敵と戦い、多くの財産を略奪し、その結果非常に富む者となったように、心の王国において私たちが獲得する財産もまた計り知れないほど大きいのであり、神は聖霊によりそれを私たちの心に啓示されるのである。
 ああしかし、ここでエックハルトが言っていることは、上で述べたことを前提として初めて理解できるのであるが、これらのことにより啓示された天的な宝のあまりの大きさのゆえに、神を心から愛し、自らの神への愛を余すところなく表したいと強く願う者は、この啓示された無尽蔵の富さえも神のためにあきらめることをあえて決心するに至るのである。ああしかし再び、この無尽蔵の富とは何なのか。おおそれは、それは、実に神ご自身に他ならない。神が愛する者に与えようとされるのは、神ご自身なのであるから。それが「神は愛なり」ということの意味なのである。「愛」とは「関係」である。そして、「神をあきらめる」とは、「神との関係を成就する」ということすなわち「完成する」ということに他ならない。それは、実にアダムの堕落前の状態への回帰なのであり、それこそが約束の地の奪回なのである。

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