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2009/07/07

神に仕える距離

純然たる無である被造物について
 この世界で実施される事業というものは、たとえ小さなものであっても、そこに何かしら成果が期待されているものである。そこで信仰者も、自分が神に仕えるという努力に対してその成果を期待するのは自然なことだろう。そして、そのような思いは、神に真剣に仕えようとしている人ほど強いように思える。彼は、綿密な計画を立て、それを着実に実施して行くことを好むに違いない。主イエスも家を建てる人を例にとって、計画の必要性について教えておられる。そして、そのようにしてもたらされる成果が神の御旨に叶うなら、それはすばらしいことに違いない。しかし、不幸にしてそうならない場合も少なくない。その原因は、彼の計画が何か神以外の目的を持っているからだとエックハルトは言う。ここに一つの困難がある。神に仕えたいと熱心に望むほど、自分の思いもまた多くなりがちだということである。それは彼が、時間性と身体性、及び多数性を持っていることに起因する。これら三つのものが彼に、戦略を練り、自己をしっかりと持ち、多くの可能性を探求することを強いるからである。しかし、神と心を一つにしようと願う者にとって、自分の考え出す戦略は、むしろ余計なものである。というのは、彼に示された神の御心は、必ず実現するからであり、すべての妨害は無力にされ、彼の出て行くところどこででも、神は彼に勝利を与えられるからである。また、十字架を負って自分に死に、主に従う彼には、新しい心が与えられる。それは、自分への執着から彼を解放し、すべてを神に委ねることを可能にする。さらに、彼には神から大きな可能性とビジョンが与えられているのであるが、それは彼の心が膨張し発散し、とりとめのないものになるためではなく、むしろ一人の神の僕として、より具体的なものとなるためなのである。
 キルケゴールも言っているが、私たちから神への接近は、特殊な努力により行われる必要がある。というのは、霊的な世界の距離感は、この世のものとは全く異なっているからである。この世においては、ある類稀な目標へ接近するためには、大いなる自己努力が必要となる。しかし、霊的な世界にあっては、そのような自己努力は、それがそのまま彼が神から遠ざかって行くことを意味しているのである。そこで、神に近づこうと思うなら、エックハルトの言うように、返ってこの世界におけるすべての探求をあきらめ、すべてから身を引き、自己の内に閉じこもることが求められるのであり、そのときあなたは、神の御胸に抱かれている自分を発見するのである。
 この接近は、この世界における接近と異なり、距離に基づくものではない。信仰者の意識が彼の内にある高次の知性に向けられたとき、突然に彼がその状態にあることが知覚されるのである。ここに至るためには、過程というものは存在せず、それは突然起こらなければならないのであり、認識の光りが次第に増大していくということもないのである。さらに、この接近は、あなたから神へというよりも、むしろ神からあなたへと言うべきものである。それには、どうしても神の恩寵が必要だからである。そこで、これはすでに探求ではなく、神とあなたの「関係」なのであり、ただそれのみが、神のこの世界に対するご計画を完成に向かって進めるのである。
 エックハルトは祈る、「すべての事物がわたしたちにあって完成され、神的御寵が私たちの内で生まれるよう、神がわたしたちを助けてくださるように。アーメン」。

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