« 2009年7月1日 | トップページ | 2009年7月3日 »

2009/07/02

神に仕える性質

知性と意志とについて
 私たち信仰者を神への常に変わらない信仰と献身へと向かわせるものはなんだろうか。鋭い知性により、神を正しく広く把握することだろうか、それとも強い意志により、弛まずに神の御許に留まることだろうか。しかし、私たちの知性も意志も、私たちを神につなぎ留めるには、少々頼りない面があるのである。それは、さながら「霧のただなか」にいるようであり、私たちはそのように神をおぼろげに見ているのである。しかし「霧のただなかにおいて明けの明星のように、彼の生涯の日々において満月のように、輝く太陽のように、この者は神の宮で光り輝いた」とシラ書(聖書外典)にあるように、私たちは神との明確な関係に入り、確信を持って神に仕え、神に喜ばれる働きをすることが可能だとエックハルトは言うのである。
 そのためにはまず、神と自分自身とを良く知ることが不可欠である。しかしエックハルトによれば、そのように神を知覚しようとする人間の知性と同じように、神ご自身も「ただ自己自身だけを認識することによって生きる一つの知性」なのである。そして、このただ一つの卓越した知性が最も本来的に住まいするのは、人間の知性の中なのであり、そのように人の知性は、神の住まいされる聖なる神殿なのである。しかも神ご自身は、すべての信仰者の心の内に同時に住まわれるということにより、個々の魂を越えて存在していらっしゃる。すなわち、神が私たちの内に住まわれるというよりも、私たちが神の内に生き活動しているのである。その意味で、神は私たちの内にあり、私たちもまた神の内にある。そして、ちょうどそれと同じように、私たちの体のどの部分にも魂が完全なままに、その全体が含まれているとエックハルトは言う。そのようにして、魂が身体の内にあるというよりも身体が魂の内に包まれているのである。さらに、神はご自身のことを「言葉」と言い表された。そして私たちも神の言葉により創造されたのであり、その意味では一つの小さな言葉なのである。
 これらのことを通して、エックハルトが言いたいことは、おそらく次のことであろう。すなわち、神とこの世界の関係は、私たちの精神と肉体の関係と類似している。そして、神がそのように造られたのは、私たちが聖書を読み、またこの世界を見渡して、それらから自分のあり方を知るためである。聖書には、神の万物創造の目的と経緯について記されており、また、その実話が実際に歴史を通してこの世界で展開されており、それがそのまま、私たちのあり方を啓示しているのである。私たちはまた、全世界に対する神の救済計画を読み、それを信じて救われる。それは、全宇宙に対するものであると共に、私たちの体と魂に対する救いの計画なのである。私たちは、自分の救いを聖書のエピソードに重ね合わせて証しする。そしてそれは、同時に全宇宙の救いの計画の一つの実例なのである。
 そのように、私たちは神の譬え言だったのであり、これからも永遠にそうなのであり、私たちはそれを自覚し、自ら一つの譬え言となる必要があるのである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2009年7月1日 | トップページ | 2009年7月3日 »