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2009/06/28

詩篇119篇176節

 「私は、滅びる羊のように、迷い出ました。どうかあなたのしもべを捜し求めてください。私はあなたの仰せを忘れません。」(新改訳聖書 詩篇119篇176節より)

 詩篇119篇は、おそらく詩篇のなかでもっとも信仰的な詩であろう。その謙虚さ、従順、義への憧れ、それらすべてが燦然と輝いて、読む者の心を神に近づけずにはおかない。その詩篇119篇の最後の一節にどうして、『私は、滅びる羊のように、迷い出ました』という言葉が入り得るのか。それが過去の回想だとしたら納得できるのだろうか。しかし、この最後の節からは、そのようなことは感じ取ることができない。『どうかあなたのしもべを探し求めてください』という表現が、この詩篇の作者が、現在まさに迷い出ていることを語っているのである。これは、あり得べからざる編集である。もしここに書いてあることが真実だとしたら、いや、それがどうであれ、この最後の一節から全き慰めと平安を得ることはもはや不可能である。これまで、永いこと読んできた詩篇119篇が、この一節で台無しになり、むしろ読まなかった方がよかったと思えるほど、無残にも信仰が崩れ去ってしまうのである。
 しかし、同じ箇所の新共同約の解釈では、これだけの成熟した信仰を持ったこの詩の作者が、それでも自分は、この世界においては、神の前で完全ではなく、これからの信仰生活においても迷い出す可能性があることを言い表し、そのときの神の助けを願い求めているのである。これが本当の謙虚さであり、成熟した信仰であり、この意味をつかむことが、聖書翻訳において重要ではないだろうか。

 「わたしが小羊のように失われ、迷うときどうかあなたの僕を探してください。あなたの戒めをわたしは決して忘れません。」(新共同訳聖書 詩篇119篇176節より)

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資料として、覚え書きとして

 以前、「新改訳聖書に関する疑問」というカテゴリーで、この聖書の翻訳内容について、いろいろな箇所を参照しながら、自分の疑問を書き連ねた。しかしあのときは、カテゴリー記事として、なるべく早く、一度は完結させ、一応の結論を出すことが必要と考えたので、早々にひとまず終わらせてしまった。しかし、最後の記事に書いたように、『それらはほんの一例に過ぎない。このような作業を徹底して行えば、おそらくこの何十倍もの箇所が抽出されてくることだろう』。そこで、その実証のためにも、また、誰かに「新解約聖書のどこが、そんなに気に入らないの?」と聞かれたときに答えられるためにも、もう一度新たにカテゴリーを設けて、気づいた箇所から収録していくのが良いと思った。というのも、私の所属する教会は、まさに新改訳聖書を常用している派だからである。そして、日曜礼拝や家庭礼拝で聖書を読むときに、そのまさにおかしいと思われる個所に遭遇することが日常茶飯事だからである。それをそのときは、ぜったいおかしいと思って、新共同訳で同じ個所を読んでみると、「ああやっぱりこうだったのか。どうもおかしいと思った」と納得するのが常である。そこでそのときのことを忘れないために、またいつでも参照できるために、ここに書き綴っていきたいと思う。

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