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2009/06/23

神に仕える意志

なぜという問のない生き方について
 人は、自分に対して「なぜ」と問うことにより、自己を反省し、改革し、新しい可能性を切り拓いてきた。この力により、人は動物に勝り、それにより自然界を支配することを得た。それは、「なぜ」という問いの積極的な側面である。しかしいっぽう、この「なぜ」という問いが、自己に対して消極的に発せられるときには、それはそのまま「迷い」となり、それにより自己の成長やときには存続までもが危険にさらされることもあり得る。
 以上は、神を知らない生まれながらの人間の場合であるが、信仰者の場合には、この「なぜ」という問いは、常に積極的に発せられるはずである。というのは、彼はすでに神の子として神から全面的に受け入れられており、何事においても神に喜ばれるのが彼の願いであるべきだからである。しかし不可解にも、信仰者である彼が、この「なぜ」という問いを消極的に発することがある。そしてそれは、実際にはけっこう一般的なことでもあるのである。たとえばそれは、「なぜ、私の奉仕が人から喜ばれないのか」というようなことである。つまり、信仰者が持っている自分のやり方とそれから彼が想定しているところの効果、それも彼自身の益となるような見返りを彼は期待しているのである。たとえそこまで、自己中心的でないとしても、さらに彼が「私の奉仕のどこが間違っているのだろう」というように問うことがあるならば、そのとき彼は、自分の考案したいくつかの方法のうちのどれかによってのみ神に仕えたいと思っているのである。しかし往々にして、その彼のやり方は、自己満足的であるか、たとえそうでなくても、必ずしも神の意図されるものではない。なぜかと言うと、神が求めておられるのは、方法論ではなく、心なのであり、神のために自分を虚しくする献身なのである。というのは、神にはすべてが可能であり、人の知恵は神の前では愚かだからである。それに対して、神は愚か者の改心と献身を決して軽んじられないからである。
 それゆえ、彼の検討違いの奉仕は、彼の意図的な奉仕へと彼を縛り付け、彼の成長を阻害し、彼の信仰における苦い根となるのである。もし彼がそこから解放されたいと思うなら、彼は自分の思いをすべて捨て去らなければならない。そのためには彼は一度、神から何一つ期待せず、何も望まず、神のために何もしようとはしないという状態に自分を置く必要があるのである。そのようにして後、彼の内からもはや、彼の利己的な思いの片鱗さえもきれいに取り除かれたとき、初めてそこに一つの純粋な意志が現れ出でるということが起こり得るのである。おおそれは、「第一の人は、地から生まれ地に属するが、第二の人は天から来る」と書いてある通りに、天から来るのである。しかしそれは、決して彼以外の存在ではなく、彼自身なのである。丁度彼が、第一の人として創造されたときのように、今度は第二の人が創造され、それが彼自身となるのであり、そのようにして、「死は命に飲まれた」と書かれているみ言葉が成就するのである。

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