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2009/06/20

触手

Shokushu 花は、思い思いの方向に手を伸ばす。思い思いに自分を表現する。歌う、踊る、語りかける。しかし、私の心には、ひとつの詩が聞こえる。ひとの賛美がこだまする。それは、一人の人への賛歌である。

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神に仕える力

魂の内にあるひとつの力について
 神は、人の魂に3つの力を与えられた。それは、この世の描く力のイメージとはかなり異なっているので、生まれながらの人には決して認識することのできないものである。しかし神は、主イエスを信じる者に、この天的な力を認識させ、行使することを可能にされる。そしてその力は、彼をして他の何よりも強く主イエスに従い行くことを可能にし、その結果また、彼を通して多くのことを成し遂げるものである。
 その力のまず第1番目は高次の知性である。この力は、彼が霊的な事柄を偏見なく認識し、それと同化することを可能にする。この力は、神である主イエスをありのままに認識し、それを自分の内に見いだす、すなわち御子を自ら、自分の内に生むのである。ちょうどこのブログが、エックハルトの著作をただ読むだけでなく、それを咀嚼し、自ら語り出そうとしているように。しかしこの力は、他の2つの力も同様であるが、神の領域の力なのであり、私たちの意識は、そのほんの一部しか把握できない。それにも関わらず、この力は神から私たちに与えられているのであり、私たちは、神と共にその無尽蔵の力を行使することができるのである。
 第2の力は、捨て去る力である。この力は、自分の内にある精神的な宝のすべて、高次の知性が把握したすべてを自ら放棄し、それらを神の元に返す。これは、キリストが福音のためにご自身を捧げられた力であり、パウロが宣教に自分を使い果たした力でもある。この力には、この世界における神の超自然的な助けが伴う。それにより、殉教者たちは、耐え難い苦しみに勝利した。それゆえ彼らには、もはやどのような苦しみも問題ではない。それらはすでに過ぎ去ったのである。この力は先の力、すなわち高次の知性よりもさらに高貴である。というのは、それにより、この力を持っている者自身が神の元に帰ることを得るからである。
 第3の力は、不動の力、あるいは無の力である。この力は天的で、ほとんど意識の外にあるものであり、霊的なものである。それゆえ、人の心はこれが存在することをかろうじて知覚できるのみである。しかしそれは、与えられているのであり、彼の全存在がこの力にかかっているのであり、彼と神との関係のすべてもこの力にかかっているのである。それは、このように働く。高次の知性により真理を把握し、捨て去る力によりそれから自由にされた者は、もはやいかなるものにも捉われないし、また彼自身いかなるものでもない。そこで、彼はもはや神といかなる具体的なつながりも持ってはいない。それゆえ、この力の領域においては、彼と神とのつながりが弱まったり切れたりすることももはやないのである。そのように彼は、この力の中で不動なのであり、この力に対しては、もはやどのようなものも影響を与えることはない。しかし彼はまた、この同じ力により、神の御心を自分の思いとし、すべてを把握し、彼に周りに神の御心を実現するのである。それは、戦略ではなく、計画でもなく、希望でもない。それは、彼の心にある神の御心であり、摂理であり、配剤なのである。

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