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2009/06/18

ビードロ

Katatsu 雨を受け止めたようでもあり、またビードロを吹いているようでもあり、シャボン玉のようでもあり、はてまたかたつむりのようでもある。

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神に仕える動機

魂という神殿について
 キリスト教は、「信じれば永遠の命を与える」と言う。それが福音である。それゆえ、人は永遠の命を受けるために信じるのであり、それが神から迷い出た罪人である人間にふさわしいことなのである。しかしもし、この恵みを期待せずに信じるということがあるなら、それは、その人が神そのものに価値を見いだす必要がある。しかしこれは矛盾である。というのは事実彼は、神の元から迷い出てしまっているのだから。そこで、何と言っても、信じる者にとっては、「私は永遠の命を受けるために信じた」と言う証しがもっともふさわしいのである。
 しかし、ひとたび福音を受け入れ、神を信じた者にとっては、この当初の信仰への動機は、もはや捨て去られなければならない。というのは、福音を信じた彼にはすでに天国が確約されていると共に、聖霊が与えられ、神のまことの姿を知るに至ったからである。それゆえ、彼の信仰の動機は、もはや天国ではなく神ご自身であり、いまや彼自身の心が神を崇める神殿とされているのである。
 しかし信仰者の中には、天国ではないが、かといって神ご自身でもないもの、すなわち自分の栄誉や教会組織における地位、そして甚だしくは、この世の幸福までも新たな動機として設定している人がいる。しかしこの信仰への新たな動機は、あらゆる意味で彼の成長を阻害する要因となる。というのは、その新しい動機は、信仰者からまことの神を求める心を奪い、その結果彼は、虚しい被造物を追い求めるようにされるからである。
 さらに恐ろしいことに彼は、そのことにより自分の失ったものにさえ気づいていない。彼は、神よりも被造物を求めているゆえに、もはや彼の心には平安がない。彼は、福音を理解し、それに同意し、受け入れているゆえに、天国への希望を与えられてはいるが、彼が求めているのは、実はこの世の幸福なのであり、彼はそれが永遠の世界においても継続すると思っているのである。しかし実際は、彼は神を忘れかけている。それゆえ、天国の希望は、すでに揺らぎ始めているのである。これが現代の多くの信仰者の姿だとしたら、それは戦慄すべきことである。いったいどうすれば良いのだろうか。
 まず、彼のなすべきことは、信仰者としての自分自身を取り戻すことである。そしてそれは、この世における幸福追求を、たとえそれがキリスト教的に彩られているにしても、一切あきらめることである。それは、「自分を捨て、日々十字架を負って主イエスに従う」ということである。このことをあえて成すとき、彼の前にあるのは、ただ主イエスの存在だけとなる。そして、彼が主イエスに従うとは、大宣教命令の実施なのであるが、それは世界大のビジョンであり、彼が自分の考えややり方で達成できるものではない。その実施方法は、ただただ主イエスから教えられるのである。しかし、このことに気づくためには、自分の知識ややり方をすべて捨てなければならない。一つでも自分の信条やポリシーを持ったままならば、それが邪魔をして、彼には主イエスの声が聞こえない。しかし、もし彼の心の声がすべて沈黙するなら、彼に主イエスの小さき細き御声が聞こえて来るのである。これは、それを実践した者、すなわち真の主イエスの僕のみが知っていることなのである。それゆえ、彼はもはやどのような個人的な目標も持つことはない。すべては、いつもその都度、主イエスからくるのであり、彼の誉れも喜びも、平安も希望もすべて、彼が主イエスの僕であることに帰するのである。

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