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2009/06/15

ゼニゴケ

Koke いつもなにか汚らしくみられているゼニゴケ。ちょっとかわいそうだと思っていた。でも、今日はちょっとかわいい感じで、ニョキニョキと傘のようなものをもたげてきていた。これが雄株、そして、その下の葉っぱの上にお茶碗のようなのがあるのが雌株。なんだか神秘的でもある。小学校でならった通りに、いまも忠実に生きていたのだな。

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服従の誓約

ネヘミヤ記 第10章
 イスラエルの民は、神である主の前にモーセの律法の厳守に関する誓約書を新たに作成し、高官、レビ人、祭司が捺印をした。それには、主に民の生活における義務について書かれていた。
 律法は、生活のすべてを覆うものである。そこにはもちろん、祭儀についても多く規定されている。しかし最後には、それは人々の生活の細々としたことを規定するようになる。その体系のすべては、祭儀から私生活に到るまで、互いに密接に関連していて切り離すことができない。それらはそれ自体、全体として調和しており、非の打ちどころがなく、完成されたものである。それに対して、私たち一人一人は、時間と空間の中に互いに分け隔てられているのである。従って、一人の人が律法の全体を理解して、どのようなときにもそれらすべてを考慮しながら、個々の行動を決定するということは不可能である。そこで、まず私たち一人一人が、自分の立場の範囲で律法を遵守することと併せて、互いに影響し合う部分においては、コミュニケーションを活発にして、律法の目的や精神を伝え合いながら互いに考え合うことにより、互いの立場の接触部分で運用の有機的な接合を確保する必要がある。それにより、律法運用の全体が神のみ旨にかなうものとなるのである。そして、それは原理上は十分可能なのである。ただし、もし時間が存在しなければである。しかし現実には、流れゆく時間の中で、互いの整合を、全体として同時に確保することは不可能であることが分かる。すると、そのタイムラグにより、人の心の中の罪が活動を始める機会が生じるのである。そしてその結果、あちらを立てればこちらが立たずという状態になってくるのである。それを解決するためには、どうしても、時間を超越すること、すなわちこの世界に死ぬということが必要となる。もし彼らに、律法と共にそのような能力が与えられていたなら、彼らは、文字通り全身全霊をもって神に仕えることができたに違いない。その意味で、彼らには完全な律法が与えられていたのである。しかし、時間の中で生きる彼らは、実際には、それを実行する力を持っていなかったのである。というのは、それは主イエス・キリストの十字架と復活による勝利によって、初めて与えられたのだからである。この偉業の中で、まず大いなる愛が現された。そして、それを自分の身に受けた私たちは、自分に死ぬこと、つまり時間を超越する力を与えられるのである。そしてさらに、主イエスの名によって一人一人に与えられる聖霊は、時間から自由にされた私たちが、神を第一に、私生活の細々としたことに対して、律法に則ってどのように対処すべきかを教え導いてくれるのである。これらにより、私たちは、時間という呪いから解放されると共に、その中で神に喜ばれる生活をする思い、すなわち神の子の心を与えられ、律法を達成することができるのである。
 しかしこのときのイスラエルは、まだ異国の支配下にあったのであり、律法の精神さえ教えられていなかった。エズラが朗読した律法を初めて聞く者さえ多かったのではないだろうか。そこで、彼らにできることは、ここに記されているような範囲のことだったのだろう。すなわち彼らは、民族の血筋の純粋性を保つこと、すなわち他の民族と婚姻しないことを誓った。また、年毎、収穫毎の供え物を忠実に行うことを約束したのだった。

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