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2009/06/10

律法を聞く者

ネヘミヤ記 第8章
 町の城壁の門に扉が付き、その中に住む人の登録が始まったことは、民の心に何がしかの影響力を持っていたのだろう。なぜなら、彼らは主の民、選民なのだから。選民とは、特殊な民である。彼らの心の奥深くには、神の律法が書き記されており、彼らは、どのような世界の果てに連れ去られようと、どのような異民族の奴隷とされようとも、また、その状態のまま、何百年が過ぎようとも、何代世代が変わろうとも、彼らの心に書き記された神の御名は、決して消えることがない。それはついに、彼らの心に芽を吹き、彼らをして選ばれた特殊な民、選民に回帰させるのである。
 かくして、イスラエルの人々は自分たちの町に住んでいたが、第七の月になったとき、民は皆、水の門の前にある広場に集まって一人の人のようになった。そして彼らは、祭司エズラに、主がイスラエルに授けられたモーセの律法の書を持って来るように求めたのであった。祭司エズラが律法を会衆の前に持ってきてそれを朗読すると、民は皆、その律法の書に耳を傾けた。総督ネヘミヤと祭司エズラが民に、いま読み上げた律法の意味を説明すると、彼らはそれを理解した。彼らは、律法の言葉を聞いて泣いていた。しかし、ネヘミヤとエズラがこの聖なる日に嘆いたり泣いたりしてはならないと民を諭すと、民はそれを理解した。彼らは、彼らが律法を聞く者であることを理解したのであった。
 使徒パウロは、ローマ人への手紙2:13でこう言っている、「律法を聞く者が神の前で正しいのではなく、これを実行する者が、義とされるからです」。しかしつづけて、ローマ3:1~2では、こう言っている、「では、ユダヤ人の優れた点は何か。割礼の利益は何か。それはあらゆる面からいろいろ指摘できます。まず、彼らは神の言葉をゆだねられたのです」と。つまり、彼らが選民であり、律法は彼らに与えられたものであり、そのことが彼らの祝福でであることを彼らは理解したのであった。イスラエルは、昔から数えきれないほど神に背き、神を裏切ってきた。しかし、神は彼らを捨てられなかった。それは、彼らが律法を守る民ではなく、律法を授かった民、律法を聞く民であるからなのである。そして、そのことを認識したとき、彼らは、神が彼らを永遠の愛で愛しておられることを理解したのであった。
 そして二日目に、すべての民の長老たちは、祭司、レビ人と共に書記官エズラのもとに集まり、律法の言葉を深く悟ろうとし、主がモーセによって授けられたこの律法に記されている通りに、仮庵の祭りを行った。ヌンの子ヨシュアの時代からこの日まで、イスラエルの人々がこのような祝いを行ったことはなかった。それは、まことに大きな喜びの祝いであった。

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自分たちの町

ネヘミヤ記 第7章
 敵の妨害にも関わらず、ついに城壁は完成した。ネヘミヤは、門に頑丈な扉を付けさせ、誠実で誰よりも神を畏れるハナンヤという人にエルサレムの行政を託した。都の門は、太陽が十分に昇ってから開かれ、守備隊が任務についている、まだ明るい内に閉じられた。町は広かったがその中に住む民は少数で、まだ家もほとんど建っていなかった。
 町には人が住んで初めて町と言える。ネヘミヤがペルシアから荒れすたれたユダヤへ帰って来たのは、そこに人々があふれ、その中心に天地を造られた神の神殿がある、真の町を建設するためだったのである。彼は、心を動かされて、貴族と役人と民を集め、家系に従って、エルサレムの住民として登録させようとした。そのとき彼は、かつて神殿を再建するために帰還した人々の名簿を発見したのであった。それらの人々は、どこへ行ってしまったのか。実は彼らは、エルサレムから離れた自分たちの町に住んでいたのであった。そして、ネヘミヤがかつてペルシアで伝え聞いた、捕囚を免れてユダヤに残り恥辱を受けていた民の声は、また彼らの叫びでもあったのである。せっかくペルシア王キュロスの好意により、生まれ故郷のユダヤに神を礼拝するための神殿を再建しておきながら、自分たち自身は、そこで礼拝することもなく、神を知らない異教徒のような生活に甘んじてきたのであった。ああ何ということだろう。彼らを恥辱の直中へと投げ込んだのは、実に彼ら自身だったのである。彼らは、生まれ故郷へ戻ってきた自分たちの真の目的を理解せず、神殿の再建を終えると、それを祭司たちに任せて、自分たちは、さっさと古い人間的、この世的な生活へと戻って行ってしまったのである。彼らを恥辱に引き渡したのは、彼らの敵ではなく、彼らの不信仰な生活だったのである。
 今日においても、もし私たちの生活が社会や家庭の中で、恥辱にまみれたものであるなら、その理由はただ一つ、私たちの生活が神の神殿から遠く離れたところで営まれているからなのである。一週間の内6日間は、この世の人々となんら変わりない生活をし、ただ日曜日だけ教会に詣でて、賛美歌を歌い、口先だけの祈りをし、午後にはさっさと家に帰り、買い物をし、テレビを見、寝床の中ではもう月曜日の会社での仕事の心配をするような生活が常であるなら、私たちが恥辱の中にいるのも無理はない。ネヘミヤ記に書かれているような状況が現在において再現されているだけのことである。しかし、あのときはペルシア王キュロスの心を神が動かされて神殿再建という恵みが訪れたのであったが、今日の私たちの教会生活は、神の一人子の尊い血により勝ち取られたものである。そのことを私たちは、もう一度肝に銘じ、生活のただなかに神殿を築く必要があるのではないだろうか。

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