« 2009年6月4日 | トップページ | 2009年6月7日 »

2009/06/05

論述 離脱について

 この「離脱」という言葉からは、なにか逃避的なもの、消極的なものを連想するかもしれないが、エックハルトが言う離脱の概念は、そのようなものではなく、むしろきわめて積極的なものである。と言うのは、キリスト教的な価値観では、最高の積極性とは愛であり、自分を捨てること以上に積極的なことはないからである。そして、その究極のものが離脱というものなのである。しかし、そうは言っても、私たちの内に、それを文字通りに受け取ることへの警戒のようなものがあることも否めない。それは、離脱の動機に関することである。
 それでは、離脱の動機はなんだろうか。実は、それが何もないのである。なぜなら、それが離脱というものの定義であり、もしそれに理由や動機があるなら、それは離脱とは呼べないのである。それでは、人はどのようにして離脱しようと意志することができるのか。というのは、一般的には人は、自分が意志しないものを実行することはできないからである。しかし一方で、無意識の内にそれを実行しているということも確かに有りはする。しかし問題は離脱が、その定義によれば、最高の積極性であることである。そのように積極的であるものを、人はいかにして無意識に実行できるのであろうか。そこで、人の意識から見て、一つの具体的な積極行動であると共に、それを実行することがそのまま、無意識に離脱の実現となるような行為が必要となる。これが「謙虚さの追求」なのである。
 イエスの母マリアは、主の前で自分の謙虚さを誇ったが、彼女の追求していたものこそ、それに他ならなかった。そして彼女は、そのようにして、離脱の最高の段階に達していたとエックハルトは言うのである。しかし、そのように離脱の高い段階に達している人も、この世界においては、外見上は、むしろ他の人と比べて目立つところはなく、むしろ小さい存在のように見られることが多い。というのは、この世界は、肉体的な強さや、論理的な思考力ばかりに着目するからである。しかし、離脱は外へ出ていく何ものも持たないので、その兆候を外から観察することは不可能なのである。それゆえ、マリアはその内に高度な離脱を懐胎していながら、小さな村の一人の貧しい処女であったのであり、また、キリストでさえ、その姿に見るべき面影はなかったのである。
 しかしそのように、この世界の目から見ると取り柄のないような離脱も、神の目から見るとダイヤモンドのような輝きを発すると共に、神に用いられることにおいては、他に並ぶものがないほどに卓越したものなのである。それゆえ、神はマリアに、主の母という最重要な務めを与えられたし、主イエスを通しては、人類の罪の購いを成し遂げられたのであった。また神の人モーセも、その離脱ゆえにこの地上でもっとも謙遜な者と記され、大いなる奇跡とかつてない偉業をなしとげたのであった。
 そこで、エックハルトの言う離脱を追求しようと決意する者は、この謙虚さを身につける必要がある。「そうすれば、神性の近くにまで至ることとなる」とエックハルトは語る。これこそ信仰の真髄であり、この世界において、私たちが到達することのできる最高の状態なのである。そこで私たちは、真実な神の子とされるために、これを追求して自分の生涯を走り通さなければならないのである。エックハルトは語る、「走るとはすべての被造物を放棄して、非被造的本質へと合一することにほかならないとディオニシウスは語っている。魂がそこまで到りつくと、魂はその名を失い、神は魂をみずからの内へと引き入れ、魂はそれ自身において無となる。それはちょうど、太陽が朝焼けをみずからの内へと引き寄せ、朝焼けそれ自身は無になるようなものである。人をそこまで導くのは純粋な離脱をおいてほかにない。このことに関しても次のようなアウグスティヌスの言葉を引くことができる。『一切の事物が魂にとって無となるところ、そこに魂は神的本性へと通じる秘められた入口を持つのである。』この入口が、地上では純粋な離脱にほかならないのである。離脱がその高みに達するとき、それは認識から認識なきものに、愛から愛なきものに、光から闇になるのである」と。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2009年6月4日 | トップページ | 2009年6月7日 »