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2009/06/03

けさらんぱさらん

Tampopo これはこれは、またなんという集合だ。いや、あつまったんじゃない。出てきたんだよ。なんのために。これから出て行くんだよ。地球のあちこちへね。地球のこちらにひとつ、またあちらにひとつ。そうやっているうちに、いつか地球がこんなふうに、覆われてひとつのたんぽぽになるのだろうか。

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説教22 神と神性とについて

 エックハルトはこの説教で、今まで言ったことのなかったことを言う。「神が天と地、そしてすべての被造物を造ったとき、その際に神は働くことがなかった。神は働くべきいかなるものも持たず、神の内にはどんなわざもなかった」と。彼がここで言っている「神」とは、「神性」のことである。彼によると、神は働き、神性は働くことがない。その働かれる神が、「わたしたちは、わたしたちに似せて、ひとつの似像を創造しよう」と語り、ご自身の業として魂を創造したとエックハルトは言う。その意味で、パウロが言うように、私たちは、まさに神の内に生き活動しているのである。しかし、魂が神の元から迷い出て、自分の意識に支配されてる限り、この宇宙の構造には気が付かないのである。つまり、自分が神の業であるということにである。しかも、エックハルトによれば、私たちが「神」と呼んでいる実体は、「神」と「神性」に分けられ、「神」は働き、「神性」は働くことがない。これによれば、魂が「神の業」、すなわち「働き」であることから、魂も神(神性ではなく)と見られることである。それゆえ、聖書は、「神はご自身の形に人を創造された」というのであり、主イエスも「あなたがたは神々だ」と言われるのである。そのように、すべての被造物は、神(神性)の光を反映する鏡なのであり、私たちが思い浮かべ、信仰することができるところの神もこの「働かれる神」すなわち鏡なのである。そして「神性」については、「それは一なるものであり、それを私たちは、思い描くことができない」のである。
 しかしエックハルトによれば、神が私たちに与えられた高次の知性は、この神性の領域にまで至ることができる。そこからキリストは、出てこられたのであり、私たちをそこへ再び連れ帰られるのである。しかしそれがすべての人に快いものかどうかはまた別問題である。エックハルトは語る、「わたしが、神性のこの根底の内へと、この基底の内へと、この源流と源泉の内へと帰り来るとき、わたしがどこから来たのか、わたしがどこに行っていたのかと、わたしに聞く者はいない。わたしがいなかったと思う者は、そこにはだれもいないからである。・・・この説教を理解した人がいれば、その人にこの説教をわたしは喜んで捧げたい。しかしたとえここに聞く者がだれひとりとしていなかったとしても、わたしは今日の説教をこの献金箱に向かってでもしたにちがいない。『これから家にもどり慣れたところで、いつものパンをかじり、神に仕えりゃいい』と言うあわれな人も多くいることであろう。わたしは永遠なる真理にかけて言うが、このような人たちはいつまでも迷いつづけなければならず、心の貧しさを手に入れることもなく、新たな天地のもとで神に従いゆく人たちが勝ち取り獲得するものをけっして手に入れることもないであろう。アーメン」。

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説教21 観想的生と活動的生とについて

 ルカによる福音書の10章にあの有名なマルタとマリアの物語が載っている。エックハルトは、この二人を用いて観想的生と活動的生について説明している。すなわち、観想的生に生きる人は、マリアのように主イエスの足元でその教えに聞き入る。それに対し、活動的生に生きる人は、マルタのように主イエスにふさわしくもてなそうとして立ち働くのである。
 「マリアは良い方を選んだのだ」との主イエスの言葉により、一般的には、マリアの所有する観想的生を高く評価する風潮がある。しかしエックハルトは、活動的生に生きるマルタを賞賛する。というのも、エックハルトが追求するのは、この世界の中で、汗と喜びにまみれて生きる者の信仰の完成だからである。私たちは、最高の信仰に到達するために、この世界から出て行く必要はない。いままでと同様にこの世界で家族や仲間と共に一生懸命に生きながら、信仰を追求すればよい。しかもそれは、この世界との妥協でも、また信仰の土着化でもなく、それこそが真の信仰追求への道なのである。というのは、信仰の偉人たちも、そして主イエス・キリストも、この世界の中で、神に従う人生を一生懸命に生きたからである。そして、そこで神の栄光を現した。その際、彼らは世の人々のように思い悩み、苦しみながら神の御名を呼んだ。彼らは、そして主キリストも、喜びや悲しみに対して無感覚ではなかった。彼らは、彼らに与えられた喜びを心から喜び、与えられた苦しみを苦しみ抜いたのであった。しかし、エックハルトは言う、「それは、愛するマルタおよびすべての神の友たちが『思い悩みの中』ではなく、『思い悩みのかたわら』に立っているということであった。その場合、時間の内における働きは、何らかの仕方で神の内へと没入している場合と同様に高貴なものとなるのである」と。
 ああもし私たちに、このエックハルトが言っていることの意味が分かったなら、私たちの人生の悩み苦しみは、跡形も無く消え去るであろう。そのとき、まさに彼の言うように、「そこでは内面の葛藤も喜びに変じ、人が大きな努力を支払って獲得しなければならないようなことも、その人には心の喜びとなり、そうすればそれは実り豊かなものとなるのである」。このことを理解するために、エックハルトは、「すべての被造物が手立てとなる」という。私たちが永遠の浄福に到達するために、すべての被造物は神によってそこに置かれているのである。そして、もう一つ別の手立てがある。それは自分の中にあり、まさにこのような手立てから自由となり、神に向かって羽ばたくことである。「なぜならば、わたしたちが時間の内に置かれたのは、時間の内における知性的な活動を通じて、神に近づき、神に似たものになるためだからである」。
 そして、知性がそれを理解したなら、そこへ到達するのは、今度は多分に人の意志が役割を演じるのである。エックハルトは、「感性的な意志」と「知性的な意志」が神の御旨に沿ったものになることの他に、第三の意志の存在に言及する。「これらすべてが満たされると、神は魂の根底にさらにもう一つの意志を置く。それは聖霊の愛による掟をともなう『永遠の意志』である。すると魂は、『主よ、あなたの永遠なる意志のなるごとく、わたしにもなさせたまえ』と語るのである。魂がこのよう仕方で、先に述べたことを満たし、それを神が気に入ると、愛する父は魂の内に父の永遠なる言を語るのである」。これは、魂と父なる神との関係であり、法則や方法論ではない。強い意志により、父なる神のそば近くに不動に留まる者に対して、父の方からのアプローチが来るのである。わたしたちは、この段階にまで進まなければならない、すなわちエックハルトの言う「徳の修練」である。それは、一般に言われるような異教的で浅薄なものではない。「使徒たちは聖霊を受けとったあとで、はじめて徳行を働き始めたのだった。それゆえ、マリアが主の足もとに坐って主の言葉を聞いていたときは、まだ彼女が学んでいたときであった。ようやく学校に入って、彼女が生きることを学びだしたときだったからである。のちに彼女が学び終わり、キリストが昇天し、彼女が聖霊を受けたとき、はじめて彼女は奉仕の生活を開始し、海の彼方にまでも旅をし、説教をし、教え、使徒たちに仕える女、洗濯する女となったのである。・・・わたしたちが真実なる徳の修練において、真にキリストにならう者となるよう、神がわたしたちを助けてくださるように。アーメン」。

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