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2009/06/01

みんな似ている

Green
 みんな同じ、でもどこか違う。でも、やっぱりよく似ている。色も、形も、雰囲気も、愛らしさも、なれなれしさも、よそよそしさも、堂々とした様子も。

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石にまみれて

Ishi
 この草が石の間にあるときは、土から出ているときと、違う顔がある。体は同じでも、どこか違う強さのようなものがある。この草には、石が良く似合う。枯れて腐りかけながらも、生きている部分はみずみずしく力強い。見られるためではなく、ただ生きるために生きているようだ。

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緑が生える。

Purple
 土の中から、緑が生える。いったいどこにこの色が隠れていたのか。この赤紫はどうだ。緑のまだら模様はどうだ。まっすぐにのびる茎、そこから出る無数の白い毛。この草には、一面にそれが生えている。それがきみの生き方か。神からもらった装いか。彼らから、生きる喜びをもらうのは、この私だけだろうか。

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説教20 像を介さぬ認識について

 パウロは、ガラテヤ人への手紙の4章で、神を知ることよりも神に知られることを強調している。しかし神秘主義は、あくまで神を知ろうと努力するのであり、そのようにして、自ら神のようになろうとするのである。しかし、それは決して、かつてのルシファーのように神と張り合うためではなく、神の約束に従い、キリストに似たものとされ、神を心底から愛するようになるためなのである。
 神秘主義者エックハルトは、「いったいどのように神をわたしたちは愛したらよいのだろう」と問い、私たちに、神を像や写しなしに認識することを求める。というのは、目に見えない神を愛するのは、お菓子や趣味を愛することとは違うにしても、私たちは、ある対象を愛するときに、その対象を味わう必要があるのであり、それが不可能なままに愛するというのは、実質的には、内容のない空っぽの愛と変わらないからである。それを実現するため、すなわち見えない神を見せるために主イエスは来られたのだが、それでも私たちが主イエスを通して見、愛する愛の対象は、父なる神であり、主イエスはあくまで方向性に過ぎないのである。というのは、主イエスはすでにこの世を去って天に帰り、父の右に座しておられるからである。そこで問題は、私たちが地上におられたころの主イエスを聖書で読み、そのようにして心の目で神を見た後で、神をどう把握するかにある。
 エックハルトは、聖パウロの言葉を彼独特の解釈で引いて言う、「あなたがたは、精神とも心とも呼ばれるあなたがたの霊において新たにされなければならない」と。というのは、神が常に新たなお方だからだ。従って、彼が言うこの「新たにされる」ということは、ある状態になるというような単純なことを意味しているのではない。むしろ「常に新たであり続ける」ということであり、そのような状態への移行のことを言っているのである。そのためには、精神を構成する6つの諸力すべてが変革される必要がある。すなわち、「悟性」、「憤り」、「欲求」、「保持能力」、「理性」、「意志」の6つの力がそれぞれ、「照明」、「平安」、「満ちたり」、「保有」、「認識」、「愛」という金の指輪をはめられなければならないと彼は言うのである。そして人が、これらの自由かつ豊かな精神の実りを保有した上で、エックハルトはその人に対して驚くべき言葉を語る。すなわち、「あなたは神を非精神的な仕方で愛さなくてはならない。つまりあなたの魂が非精神的になり、一切の精神性を脱ぎすてるほどに非精神的な仕方で愛さなくてはならない」と。
 その理由は、あなたが自ら保有する、そのすばらしい精神で神を愛するとき、神はあなたの恋人と化してしまうからである。というのは、神はそれほどにすばらしく、あなたを魅了する愛の対象だからである。ああしかし、それは神を本当に愛することではなく、究極的には、あなた自身を愛することになるとエックハルトは言う。そして、神を愛するためには、そういうあなた自身を捨てなければならないと言うのである。ああ、それでは私の精神とは何なのか。神は、なぜ私に精神を下さり、神を愛する愛をくださったのか。なんとそれは、その愛を捨てるためなのである。キリストが神のために命を捨てられたように、私たちが神のために捨てることのできる究極的なものとは、精神的な愛、人間的な愛なのである。そして、そこに一つの愛が残される。それは、どんなことにも変わらない、限りなく透明かつ純粋な愛である。「愛はいつまでも変わることがない」とパウロは言う。この愛こそ、キリストが十字架上で「父よ、どうして私をお見捨てになったのですか」と叫ばれた後にも、キリストの心にあった父への確かな愛、けっして変わることのない愛なのである。しかし世の愛、人間的な愛は過ぎ去る。しかし、エックハルトが言うところの非精神的な愛というものがもしあるなら、それは、まさに聖書が言っているように、いつまでも変わることがないである。しかし、それには、私たちは自分を捨てなければならない。私たちは、神からいただいたすべてを捨て、非精神的にならなければならないとエックハルトは言うのである。しかしそれには、無限の時間が必要である。私たちの抱く人間的、精神的な神への愛を捨てるということは、私たち自身を捨てることを意味する。それには、無限の時間が必要なのである。それは、父が私たちを永遠の愛の対象として造られたからである。エックハルトは語る、「あなたは神を、ひとつの非神として、ひとつの非精神として、ひとつの非位格として、ひとつの非像として、さらに、一切の二元性から切り離されたひとつの純粋で透明で澄みきった一なるものとして愛さなくてはならないのである。そして、この一なるもののうちで、わたしたちは有から無へと永遠に沈みゆかなければならないのである。そうなるように、神がわたしたちを助けてくださるように。アーメン」。

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