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2009/05/26

説教18 無である神について

 「神は、無である」とエックハルトは言う。それゆえ私たちは、神については何一つ語ることができない。しかしこの説教は、14頁にもおよぶ長いものである。ここでエックハルトは、「無である神」について語っているのである。どのようにしてであろうか。それは、「神とは、こういうものではない」という伝統的な否定的論法によってである。「神は、被造物ではない」、それゆえ「被造物の中に神を捜し求めても無駄である」、そしてまた「被造的な意識の延長として神に到達することもできない」。しかし彼によれば、「もろもろの感覚が高次の思惟の内へと飛翔する」ことによってそれが起こり得る。そして彼は言う、「これはたいへんにむずかしい問題であるが、つまり、まず捜し求めていく知性の内へと突進し、飛躍し、そしてこの捜し求めていく知性がこんどは、もはや捜し求めることのない知性の内へと、つまり、自分自身の内で純粋なひとつの光である知性の内へと飛躍しないかぎりは、天使といえどもこの思惟に関して何も知ることはない」と。パウロの場合には、彼がダマスコへの途上で、天からやってきた強い光を浴びたとき、この飛翔が起こったのであった。この飛翔を起こすもの、それは今日においては、奇跡的な、ある感動的な経験であり得る。しかし、その体験自体が神なのではない。それは、「飛翔を誘発するもの」なのである。
 パウロがこの飛翔を経験したとき、彼は、すべての被造物をもはや何の価値もないもの、すなわち「無」として見たのであった。そしてそのとき、彼は神を見たのである、すなわち「無」として。神は「無」である。もちろん神ご自身は「無」ではないが、私たちは神をひとつの「無」として見る以外にはない。被造物と神との接点がないゆえに、すなわち「無」なのである。しかし、私たちがもし、神の内で神を把握するならば、それは無ではない。それに必要なのが飛翔なのである。そして、そのようにして、とにかく私たちが神を見るとき、私たちはまた、被造物を「無」として見ることになるのである。そして、自分自身については、それを「無」としてではなく「無に等しい或るもの」として見る。神を見ている自分自身が存在することが疑い得ないからである。しかし、それ以外のもの、すなわち、神と自分以外のものは、もはや存在しないも同然である。それは、あなたが神を愛し、神もあなたを愛しているゆえに、他のすべては、もうどうでも良いのである。そして、実はそれがこの世界の構造でもあるのである。というのは、結局は、この世界のすべての被造物は、そのようにして神の元に帰り、あなたと神以外には存在しないも同然になるからである。そして、そのあなた自身もまさに神から流出しながらも神の内に留まり続けている神の業なのであり、そのようにして、最後にあなたも神の元へ帰ることになるのである。それが可能となったのは、まず御子が父の元からあなたのところへ歩み出て来られたからである。それは、彼があなたによってあなたの内に見いだされるためであり、そのようにして、あなたが御子からすべての被造物を相続し、もと出てきたところへ帰るためなのである。

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