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2009/05/23

説教17 三つの内なる貧しさについて

 プロテスタントのクリスチャンは、聖書をいろいろに解釈するのが特に好きなようだ。例えば、マタイの福音書台5章3節の『心の貧しい人々は、幸いである』を読むと、この『心の貧しい』とは、こういう意味だとか考えるのが好きなのである。エックハルトもここで、何人かの師による解釈を載せている。例えば、『神がかつて創造したすべてのものにも満足しない人、その人こそ貧しき人である』という解釈がある。しかし、聖書を知っている人ほど、聖書を文字通りに受け取るものである。というのは、聖書を読めば読むほど、変わるのは私たちの方で、神の言葉は永遠に変わらないからである。私たちが聖書をあれこれ解釈しているうちは、私たちはその真の意味を分かっていないのだ。聖書のすべての言葉を文字通りに受け取ることができるまでに私たちが根底から変えられるとき、その人は初めて聖書の言葉を理解したのである。
 そこでエックハルトは、もっと単刀直入に答える、すなわち『何も意思せず、何も知らず、何も持たない人、そのような人こそが貧しき人である』と。そしてそれは、文字通り「何も意思せず、何も知らず、何も持たない人」なのであり、つまり「神の意思を満たそうとも意思せず、自分が神の栄光ために生きているということすら知らず、自分の中に神のためのいかなる場所も持たない」ということなのである。なぜならば、例え最愛の神の意思であっても、この世界を生きながらそれを満たそうとすれば、自分の心の中に葛藤が起こらざるを得ない。また、自分が神の栄光のために生きているということを知るということは、そうでない自分をもまた知っているということである。さらに、神のための或る場所を自分の中に持つということは、そうでない場所も持っていることを意味するからである。それゆえに、これらのことは最良のものではないとエックハルトは言うのである。そして、それらに対して、最良のものとは、すなわち『神の意思を満たそうとも意思せず、自分が神の栄光ために生きているということすら知らず、自分の中に神のためのいかなる場所も持たない』という生き方だと言うのである。
 しかし、仮にそのような人がいたとしたら、その人は、まったく文字通り『神の意思を満たそうとも意思せず、自分が神の栄光ために生きているということすら知らず、自分の中に神のためのいかなる場所も持たない』のであるから、生ける屍同然であり、何の役にも立たず、天国もまた彼のものではないのではないか。しかし、エックハルトは、主イエスは、彼に天国を与えると言うのである。なぜなら、主イエスは、『心の貧しい人々は、幸いである』と語られたからであり、それを文字通り理解すれば、「何も意思せず、何も知らず、何も持たない人」なのであり、さらにそれを文字通りに理解すれば、「神の意思を満たそうとも意思せず、自分が神の栄光ために生きているということすら知らず、自分の中に神のためのいかなる場所も持たない」ということになるからである。
 それでは再び、いかにしてエックハルトが言う『心の貧しさ』が真の貧しさなのだろうか。その鍵は、最初に述べたように、そのように私たちの方が変わる必要があるということである。聖書の言葉の解釈が変わるのではなく、私たちの方が変わるのである。そして、それが本当の聖書の読み方なのである。しかし、そのように変わることのできないものが私たちの内に存在する。私たちは、神の意思を満たしたいと思う。しかしその理由を突き詰めて行くと、「天国へ行きたいから」とか、「良い人になりたいから」とか「神に栄光を帰したいから」とかいろいろとなる。しかし、神はあなたに何かしてもらわなければならないお方なのだろうか。神があなたに望まれることは、あなたが神の元へ帰ることである。それが、放蕩息子の父、すなわち天の父の望まれるたった一つのことである。そして、あなたがそのことを成したなら、もうあなたには、何も新たには成すことはない。あなたには、父の子としての永遠の昔からの仕事があるのであり、それをあなたは意思して行う必要はない。それは、もはやあなたの仕事なのである。また、あなたはその仕事を父のためにしていることを知る必要もない。あなたは、ただただその仕事をすれば良いのである。また、あなたはその仕事のために場所を用意する必要もない、あなたの仕事場は、すでに用意されているからである。

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