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2009/05/22

説教16 魂の内にある火花について

 キリスト教は、人の魂が創造された後に堕落した結果、今は死ぬべき運命にあると主張する。しかし同時にまた、その死ぬべき魂を神が御子の血によって購い、再び永遠の命を与えると宣言する。このような驚くべき教えは、他のどこにも存在しない。しかし、それが実際にどのように実施されているのかということについては、私たち凡人の知る由もなく、私たちは日常それを考えることさえしない。それはあたかも、私たちの意識の到底届かない、遙か彼方で行われているようであり、私たちは、伝道においても、ただただ聖書の記述をオウム返しのように語り伝えるのみである。
 しかし、本当にそうであろうか。救いの御業は、私たちから遙かに離れたところで行われたのか。そうではなかった。それは、まさに私たちの目の前で行われたのであり、私たちはその証人なのである。「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます」とヨハネの手紙第一にあるように、それは実は、私たちにとって身近なものなのであり、私たちはそれをつかまなければ、私たちの内の主の恵みが現実的なものとなることもまた期待できないのである。というのは、ある人の内で恵みの御業が漠然としている間は、その人に天国が約束されてはいるが、彼がこの現実世界の中で神のために何かの働きをするということができないからである。それは、彼の信仰が、現実世界に焦点を結んでいないからである。
 しかし、そういうことはあっても、神の御業自体は天的なものであり、その中には、この世の概念では決して理解できない要素があるのではないか。「近づくこともできない光の中に住まわれ・・・」(Ⅰテモテ6:16)と言われているように、この世界に住む私たちが行う福音理解には限界があるのではないか。実は、それがエックハルトがここで言っていることなのである。
 そこで彼は、持ち前の神秘主義を用いて、この世界と天の間のギャップを越えようとするのである。その意味で、彼の神秘主義は、机上の空論ではなく、臨床に基づく応用可能なものなのである。しからば、どのようにしてそれを越えるのか。自分の中にある神的なものを持ってして超えるのである。それはいったい何かと言えば、彼が良く引き合いに出すように、「神は御自分にかたどって人を創造された」(創世記1:27)とあるように、自分の内にある、神に造られた神的なものすなわち、「神の形」なのである。自分の心の目(すなわち知性)、これは神により、神の形に造られた目であり、それは神の目の働きをするのである。そして、私の心の目と心の耳の類似性よりも私の心の目と神の目の働きの類似性の方が大きいと彼は言う。それゆえ私が、自分の心の目について思い巡らし、それを働かせるとき、それは神の業ともなり得るのであり、その中に深い真理、彼によれば三位一体の真理が宿っている。すなわち、「キリストが人と成った」ということの真の意味が。キリストは、いかにして人となることができたのか。それは、人が神の形に造られていたからであり、それは、実にキリストが人と成られるためだったのである。そして、それだけでなく、キリストは、今もあなたという神に造られた器を通して、人と成られるのである。もちろん2000年前に来られたキリストとあなたとの間には違いがあるのだが、それはアダムとあなたの間の違いと変わらない。アダムもあなたも人であるのと同じように、キリストもあなたも神の子なのである。
 そこで、そこには、新たなるものは何もないし、新たに創造されるもの、新たに知るべきもの、新たに成されるべきものは何もないのである。エックハルトは言う、「というのもこの根底は、みずからの内で不動な、ひとつの単純な静けさだからである。しかし、この不動性によってすべての事物は動かされ、それ自身において知性的に生きるあらゆる命が受け取られるのである。わたしたちが、このような意味において知性的に生きるよう、わたしが話したこの永遠なる真理がわたしたちを助けてくれますように。アーメン」。

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