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2009/05/21

信仰のまねごと

 新改訳聖書刊行会は、そのホームページで『口語訳聖書以前は「なだめの供物」(ロマ三・二五)と訳していたヒラステーリオンを「あがないの供物」として、「耳ざわりのよい、なめらかな弱々しい言葉におきかえ」、「罪に対する律法の怒りをおおうなだめの血」であるべきところを、「近代化してしまっては聖書の宗教にとって台なしである』と言っている。しかし、口語訳聖書は、決して訳を近代化しようとしてそのようにしたのではなく、新約の教理に整合させ、全体を調和した体系に戻したのである。それは、聖書の文脈を考えれば明らかである。
 3:25と26において、『ご自身の義を現わすため』と繰り返し言っているのは何のためなのか。これは、明らかに新約における福音による神の義のことを言っているのである。それは、旧約時代のような、罪を犯すたびに神をなだめるための供え物を何度も何度も、そのたびに捧げていたころの話しをしているのではない。新約において、キリスト・イエスがたった一度だけ、ご自身の汚れなき御体をもって、『完全な購い』をされたことを指して言っているのであり、それ以外に考えられるはずはないのである。ここで言われている『義』とは、妬みの神、復讐の神の義ではなく、神の燃える怒りがイエス・キリストという一人の人の上に注がれて、彼を信じるすべての人が義とされたというその福音の義のことなのである。従って、その信仰の核心を正確に訳し出すためには、新改訳のような『なだめの供物』という訳はあり得ず、『罪を購う供え物』でなければならず、それ以外にはあり得ないのである。
 そこで、もはや新改訳聖書に現されている聖書翻訳は、信仰ではない。それは、信仰のまねごとなのである。旧約聖書の最初のページから、黙示録の最後のページまでが、私の見たところでは、信仰のまねごとに過ぎないと思えるのである。

ローマ人への手紙
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(新改訳)
(3:25) 神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現わすためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。
(3:26) それは、今の時にご自身の義を現わすためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。

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(新共同訳)
(3:25) 神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。
(3:26) このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。

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めちゃくちゃな教理

 新改訳聖書の訳者たちの未熟な教理解釈は、このローマ人への手紙において著しく本領を発揮している。ここでパウロは、もちろん旧約時代における律法をもふくめた神の裁きの話しをしているのであり、律法を持っていた彼らの裁きはすでに律法によって下されたと言っているのである。そして、律法を持たない新約時代の人々の裁きも彼らの良心がすでにこれを下していると言っているのである。だから人は死んだ後、直ちに裁きに委ねられるのである。それは、決して未来のことではない。キリストもヨハネ3:18において、「御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている」(新改訳聖書)と言っている。だから裁きは、新改訳聖書がこのローマ人の手紙を訳しているように『神がキリスト・イエスによって人々の隠れたことをさばかれる日に、行なわれる』のではないのである。決してそうではなくて、キリスト・イエスの日には、人の目に隠されていたことが裁かれるのであり、誰の目にも明らかなことについては、律法の下にある者も、福音の恵みの下にある者も、すべてそれぞれに応じて裁かれていたことが、キリスト・イエスの日に明らかになると言っているのである。

ローマ人への手紙
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(新改訳)
(2:12) 律法なしに罪を犯した者はすべて、律法なしに滅び、律法の下にあって罪を犯した者はすべて、律法によってさばかれます。
(2:13) それは、律法を聞く者が神の前に正しいのではなく、律法を行なう者が正しいと認められるからです。
(2:14) ――律法を持たない異邦人が、生まれつきのままで律法の命じる行ないをするばあいは、律法を持たなくても、自分自身が自分に対する律法なのです。
(2:15) 彼らはこのようにして、律法の命じる行ないが彼らの心に書かれていることを示しています。彼らの良心もいっしょになってあかしし、また、彼らの思いは互いに責め合ったり、また、弁明し合ったりしています。 ――
(2:16) 私の福音によれば、神のさばきは、神がキリスト・イエスによって人々の隠れたことをさばかれる日に、行なわれるのです。

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(新共同訳)
(2:12) 律法を知らないで罪を犯した者は皆、この律法と関係なく滅び、また、律法の下にあって罪を犯した者は皆、律法によって裁かれます。
(2:13) 律法を聞く者が神の前で正しいのではなく、これを実行する者が、義とされるからです。
(2:14) たとえ律法を持たない異邦人も、律法の命じるところを自然に行えば、律法を持たなくとも、自分自身が律法なのです。
(2:15) こういう人々は、律法の要求する事柄がその心に記されていることを示しています。彼らの良心もこれを証ししており、また心の思いも、互いに責めたり弁明し合って、同じことを示しています。
(2:16) そのことは、神が、わたしの福音の告げるとおり、人々の隠れた事柄をキリスト・イエスを通して裁かれる日に、明らかになるでしょう。

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