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2009/05/20

福音書でも基本的には

 たぶん、これは私の推測だが、新改訳聖書は、他の訳(たぶん口語訳)を参考にして訳された。おそらく、それを反面教師のようにして訳されたのだろう。少なくとも、新改訳以前にあった口語訳に不満だった人たちがそれに反旗を翻すようにして、新改訳の翻訳に着手したのだと思う。そのとき、一定の翻訳規則を設けたのだが、完全に一から聖書を訳すのは大変な仕事なので、反面教師である口語訳を大いに参考にしたに違いない。そして、その悪いところを直して新しい聖書を作ったのだと思う。だから、以前から口語訳で良く読まれていたところほど、口語訳に近い訳になっているように見える。このことは、新共同訳についても同じであり、その点では新共同訳の方が口語訳に近いとさえ見える。しかしそれでも、新改訳は、口語訳を修正したものとの感触はぬぐえない。そして、それを反面教師のように用いて、違和感のあるところを修正したと思われる。つまり、以前から良く読まれていて、それがすんなり心に入っているところはそのままになっているように思う。そして、つまらないところを修正して、返っておかしくしてしまっているようにも見える。下に示したように、マタイ2:6を見ると、新改訳は、神の主権を強調するあまり、冷たいそっけない訳になっている。キリストは確かにやがて「支配者」になられるのだが、このときは、そうではない。そして、今に至っては、「牧者」なのである。それを、「永遠から永遠までキリストは支配者である!」とでも言いたげに新改訳は訳しているのである。これは、どうも好きになれない。4:18についても、新改訳独特の「・・・からである」調が豪語している。これはやはりいただけない。
 私は、そもそも新改訳聖書の翻訳姿勢そのものが気に入らないのだ。新改訳聖書刊行会のホームページには、この翻訳姿勢のことが書かれているが、それによると、口語訳が使途20:28を『神が御子の血であがない取られた神の教会』と訳したのが気に入らず、「『神ご自身の血』を抹殺して『御子の血』だけ他の校本から借りて来た姑息な翻訳姿勢には、人本的な小ざかしい知恵による非福音的なひよわなものがみえすいていて、鋭く批判されねばならない」と口汚く批判し、これを『神がご自身の血をもって買い取られた神の教会』と訳さなければならないと言う。つまりこれによると、三位一体の第二位格である「御子」は、神ではないと言っているのである。しかも、「神は、霊であるから・・・・」という聖書の言葉から考えても、『神がご自身の血をもって』という表現が、神を肉体を持ったグロテスクなものとしてしまうことから、ふさわしくないということが分からないのだろうか。一体彼らは、自分の言っていることが分かっているのか。本当に神学を学んできているのか。私は、憤りを抑えることができない。もし、そのように聖書を取り扱おうとするなら、「キリスト」と書かれているところ、「御子」と書かれているところ、「聖霊」と書かれているところをすべて「神」と書き換えなければならなくなるかもしれない。しかし、そんなばかな話しがどこにあるだろうか。
 私は、これらのことの中に、新改訳聖書を訳した人たちの虚栄心が轟々と渦巻いているように思える。そのような一部の神に逆らう虚栄心の塊のような心の人たちに新改訳聖書は振り回されているとしか思えないのである。というのは、新改訳聖書の中には、このカテゴリーで列挙しているように、もっともっとおかしいところがたくさんあるからである。

マタイの福音書
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(新改訳)
(2:6) 『ユダの地、ベツレヘム。あなたはユダを治める者たちの中で、決して一番小さくはない。わたしの民イスラエルを治める支配者が、あなたから出るのだから。』」
(4:18) イエスがガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、ふたりの兄弟、ペテロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレをご覧になった。彼らは湖で網を打っていた。漁師だったからである。

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(口語訳)
(2:6) 『ユダの地、ベツレヘムよ、おまえはユダの君たちの中で、決して最も小さいものではない。おまえの中からひとりの君が出て、わが民イスラエルの牧者となるであろう』」。
(4:18) イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。

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(新共同訳)
(2:6) 『ユダの地、ベツレヘムよ、お前はユダの指導者たちの中で 決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」
(4:18) イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。

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説教15 神が魂の内に子を生むということについて

 聖書には、何人かの寡婦が象徴的に登場する。ここでエックハルトが取り上げているのは、夫に死に別れ、息子にも先立たれた一人の女性である。そしてエックハルトはそれらの寡婦は、人の魂を象徴していると言う。
 「夫が死んだので、息子もまた死んだのである」。つまり、彼女(魂)が知性(夫)の中で生きなかったからこそ、息子もまた死んだのであった。また、サマリアの女が知性の内で生きなかったからこそ、彼女に生ける水(聖霊)が与えられなかったのである。さて、寡婦に共通しているのは、生む能力が死んでいるということである。そこで、実りもまた無いのである。しかし、神を所有する魂は、各瞬間ごとに生み続ける。彼女は、父なる神と同じ場において、神と共に豊かに生むものとなる。すなわちエックハルトが言うところの「魂が神と同じ姿であるものの内で神を自分の内から生む」ということが起こるのである。そこでは魂は神の似像である。しかし、魂が神と共に生むとは、いったい何を生むのであろうか。それは、まず神がその一人子を魂の最内奥に生む。そして、それによって次に、魂が神を自らの内に生むのである。それは、もちろん先に言ったように、「魂が神と同じ姿であるものの内で」なされることなのであるが、いずれにしても、この誕生の中ですべての被造物が流れ出てくるのである。神はそれらをすべて御子のために創造するのであり、私たちは御子と共に、すべての被造物を相続するのである。
 主イエスは「若者よ」と呼びかけられた。エックハルトは、「人は知性の中では余すところなく若い」と言う。人は、知性的に生きるときに自分の根元に迫ることができる。しかしこの「知性」とは、私たちが通常思い浮かべるところの知性ではなく、この世界にはないものを認識するところの高次の知性である。それは神的愛、すなわち福音の真理の偉大さ以上に高貴であり、それらをも包含するところの神的真理以外の何ものによっても満たされることがなく、その場において神と魂との本当の合一が起こるとエックハルトは言う。すなわち、魂が神の像であるような場で魂が生きるときに、魂もまた神と共に生むのであり、そこに本当の合一があり、浄福もまたそこにあるのであるが、知性が浄福を受け取るのでも、意志が浄福によって満たされるのでもない。
 エックハルトは言う、「浄福が知性としてではなく、浄福としてあるところ、神が神としてあるところ、魂が神の像であるようなところ、そこにつまりは浄福があるのである。魂が神を、あるがままにつかむところ、そこに浄福はある。そこでは、魂は魂であり、恩寵は恩寵であり、浄福は浄福であり、神は神である。主に祈ろう。わたしたちがそのように神とひとつになることに恵まれるよう、神が助けて下さるように。アーメン」。

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