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2009/05/13

神との関係

 新改訳聖書も、さすがに難しい預言書には、力のある訳者を配置しているように見える。読んでいてそれほど違和感がなくすんなりと心に入ってくる。しかし、きわどいところでは、やはり違いが気になってくるものである。それは、やはり聖書全体の整合というか、神は聖書全体を通して語りかけてくるのであり、それをそのように捉えているかどうかの違いなのではないだろうか。

預言書
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(新改訳)
イザヤ書
(54:6) 「・・・主は、あなたを、夫に捨てられた、心に悲しみのある女と呼んだが、若い時の妻をどうして見捨てられようか。」とあなたの神は仰せられる。
エレミヤ書
(1:17) さあ、あなたは腰に帯を締め、立ち上がって、わたしがあなたに命じることをみな語れ。彼らの顔におびえるな。さもないと、わたしはあなたを彼らの面前で打ち砕く。
エゼキエル書
(8:17) この方は私に仰せられた。「人の子よ。あなたはこれを見たか。ユダの家にとって、彼らがここでしているような忌みきらうべきことをするのは、ささいなことだろうか。彼らはこの地を暴虐で満たし、わたしの怒りをいっそう駆り立てている。見よ。彼らはぶどうのつるを自分たちの鼻にさしている。
マラキ書
(3:10) 十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしをためしてみよ。 ――万軍の主は仰せられる。―― わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。
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(新共同訳)
イザヤ書
(54:6) 捨てられて、苦悩する妻を呼ぶように主はあなたを呼ばれる。若いときの妻を見放せようかとあなたの神は言われる。
エレミヤ書
(1:17) あなたは腰に帯を締め立って、彼らに語れ わたしが命じることをすべて。彼らの前におののくな わたし自身があなたを彼らの前でおののかせることがないように。
エゼキエル書
(8:17) 彼はわたしに言った。「人の子よ、見たか。ユダの家がここで数々の忌まわしいことを行っているのは些細なことであろうか。彼らはこの地を不法で満たした。また、わたしの鼻に木の枝を突きつけて、わたしを更に怒らせようとしている。
(3:10) 十分の一の献げ物をすべて倉に運び わたしの家に食物があるようにせよ。これによって、わたしを試してみよと万軍の主は言われる。必ず、わたしはあなたたちのために天の窓を開き祝福を限りなく注ぐであろう。

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説教14 神の言葉について

 「すべての被造物が外へと流れ出ながら、しかも神の内にとどまりつづけるということはまったく不思議なことである」とエックハルトは言う。「神が与えたもの、そして神が与えることを堅く約束したもの、それはまことに不思議なものであり、理解しがたいものであり、信じがたいものである。」
 しかし、エックハルトによれば、実はこの形態、すなわち、「外へと流れ出ながら、しかもその内にとどまりつづける」という形態こそが、すべての被造物に共通なものなのである。そしてこの世界は、実はそのような構造をしているのであり、神はまさにそのようにして、すべての被造物の内にあるのである。つまり、神がすべての被造物の内にあるということは、すなわち、すべての被造物が神から流れ出ながら、同時に神の内にとどまりつづけているということなのであり、もっと端的に言えば、私たちが神の「外へと流れ出ながら、しかもその内にとどまりつづける」とき、私たちは神が私たちの内におられることを認識するのである。そしてそれはまた、神が永遠の世界において私たちを生むこと、すなわち永遠に生み続けることなのであり、エックハルトが言っているこの「生む」とは永遠の世界におけることなのである。それゆえそれは一瞬の出来事でありながら、それが永遠に続くのである。そのようにして、神はこの世界のいっさいがっさいをこの永遠の今において、再創造するのである。
 そして、私たちが神から流れ出るとき、それが神の御子、すなわち神ご自身と同じ形態だということを私たちが認識するとき、私たちと御子の間に何の区別もないこともまた明らかになるのであり、そのようにして、私たちは神の子とされるのである。そして私たちは、神の命令を守るときにもまた、この形態に従うのである。つまり、エックハルトが言うように「神はあなたの愛の原則であり、基礎でなくてはならない。あなたの愛の最初の目標は純粋に(あなたの内におられる)神へと向けられていなければならない。そしてそのあとで、自分自身に向けると同じように、自分自身に向けるよりけっして劣ることなく、あなたの隣へと向けられていなければならないのである」のである。それゆえ、私たちにとって浄福とは、すべてを神にお返しすることに他ならない。つまり、すべての被造物が神から流れ出るその形態に、私たちの認識を戻す(あるいは思いを馳せる)ということである。そして、私たち自身も神から流れ出るものであることを認識することは、「すべての事物の内で励む」ということを意味する。つまり、エックハルトが言うように「覆いのない純粋な単一な有以外のどこかに基礎付けられているとき、そこにおいてあなたの努力を試みよということである。それはちょうど、あなたは頭をもたげて昂然としなさいというようなものである」。つまり、この世において、私たちは、地道に聖書のみことばによって神に仕えるということである。

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信仰の感動

 「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます。」(新改訳聖書 詩篇42:1)
 一見、名訳のようにも見える。しかしよく考えてみると、「慕い」、「あえぐ」ということはよほどのことである。それは、水が枯渇して、もだえている状況であり、新改訳にはそれがまるで表現されておらず、単なる調子の良い歌となってしまっていることが分かる。というのも、谷川が流れていれば、鹿は自由なのであるから、いつでもそこへ行けるのであり、「慕いあえぐ」とは言いすぎに思えるからである。
「涸れた谷に鹿が水を求めるように神よ、わたしの魂はあなたを求める。」(新共同訳 詩篇42:1)この方が、信仰の真髄を言い表しているように思う。
それにしても、新改訳の4節の訳は何であろうか。普通、このようには、言わないだろう。全体的にも、新改訳は、ぼやけており、切実さがなく、不真面目な感触を受ける。新共同訳は、信仰の感動を持ってこれを謳い上げている。

詩篇 第42編
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(新改訳)
(42:1) 鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます。
(42:2) 私のたましいは、神を、生ける神を求めて渇いています。いつ、私は行って、神の御前に出ましょうか。
(42:3) 私の涙は、昼も夜も、私の食べ物でした。人が一日中「おまえの神はどこにいるのか。」と私に言う間。
(42:4) 私はあの事などを思い起こし、御前に私の心を注ぎ出しています。私があの群れといっしょに行き巡り、喜びと感謝の声をあげて、祭りを祝う群集とともに神の家へとゆっくり歩いて行ったことなどを。
(42:5) わがたましいよ。なぜ、おまえは絶望しているのか。御前で思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。御顔の救いを。
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(新共同訳)
(42:2)涸れた谷に鹿が水を求めるように神よ、わたしの魂はあなたを求める。
(42:3)神に、命の神に、わたしの魂は渇く。いつ御前に出て神の御顔を仰ぐことができるのか。
(42:4)昼も夜も、わたしの糧は涙ばかり。人は絶え間なく言う「お前の神はどこにいる」と。
(42:5)わたしは魂を注ぎ出し、思い起こす 喜び歌い感謝をささげる声の中を祭りに集う人の群れと共に進み神の家に入り、ひれ伏したことを。
(42:6)なぜうなだれるのか、わたしの魂よなぜ呻くのか。神を待ち望め。わたしはなお、告白しよう「御顔こそ、わたしの救い」と。

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