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2009/05/08

接続詞

出エジプト記 第14章
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(新改訳)
(8) 主がエジプトの王パロの心をかたくなにされたので、パロはイスラエル人を追跡した。しかしイスラエル人は臆することなく出て行った。
(9) それでエジプトは彼らを追跡した。パロの戦車の馬も、騎兵も、軍勢も、ことごとく、バアル・ツェフォンの手前、ピ・ハヒロテで、海辺に宿営している彼らに追いついた。
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(新共同訳)
(8)主がエジプト王ファラオの心をかたくなにされたので、王はイスラエルの人々の後を追った。イスラエルの人々は、意気揚々と出て行ったが、
(9)エジプト軍は彼らの後を追い、ファラオの馬と戦車、騎兵と歩兵は、ピ・ハヒロトの傍らで、バアル・ツェフォンの前の海辺に宿営している彼らに追いついた。

 この箇所における新改訳の接続詞の用法は、最悪である。「パロはイスラエル人を追跡した。」、「しかしイスラエル人は臆することなく出て行った」、「それでエジプトは彼らを追跡した」。これらの関係に何か意味を見い出すことのできる人がいたらお目にかかりたい。これらの接続詞「しかし」、「それで」には、まったく何の意味もない。このような無意味な使い方、不適切な用法をいちいち挙げていったら、本当にきりがないのが新改訳聖書の実体なのである。これらがこのように使われている目的は、ただ一つ。これを読む者の心を錯乱させ、聖書を文脈で理解しようとすることをあきらめさせ、いつしか、聖書は理解できない代物だと思い込ませること意外には考えられない。

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強い手

出エジプト記 第6章
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(新改訳)
(1) それで主はモーセに仰せられた。「わたしがパロにしようとしていることは、今にあなたにわかる。すなわち強い手で、彼は彼らを出て行かせる。強い手で、彼はその国から彼らを追い出してしまう。」
(2)神はモーセに告げて仰せられた。「わたしは主である。
(3)わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに、全能の神として現われたが、主という名では、わたしを彼らに知らせなかった。
(4)またわたしは、カナンの地、すなわち彼らがとどまった在住の地を彼らに与えるという契約を彼らに立てた。
(5)今わたしは、エジプトが奴隷としているイスラエル人の嘆きを聞いて、わたしの契約を思い起こした。
(6)それゆえ、イスラエル人に言え。わたしは主である。わたしはあなたがたをエジプトの苦役の下から連れ出し、労役から救い出す。伸ばした腕と大いなるさばきとによってあなたがたを贖う。
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(新共同訳)
(1) 主はモーセに言われた。「今や、あなたは、わたしがファラオにすることを見るであろう。わたしの強い手によって、ファラオはついに彼らを去らせる。わたしの強い手によって、ついに彼らを国から追い出すようになる。」
(2)神はモーセに仰せになった。「わたしは主である。
(3)わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに全能の神として現れたが、主というわたしの名を知らせなかった。
(4)わたしはまた、彼らと契約を立て、彼らが寄留していた寄留地であるカナンの土地を与えると約束した。
(5)わたしはまた、エジプト人の奴隷となっているイスラエルの人々のうめき声を聞き、わたしの契約を思い起こした。
(6)それゆえ、イスラエルの人々に言いなさい。わたしは主である。わたしはエジプトの重労働の下からあなたたちを導き出し、奴隷の身分から救い出す。腕を伸ばし、大いなる審判によってあなたたちを贖う。

 この箇所に出てくる「強い手」とは、頑ななパロの手からイスラエル人を解放し、エジプトから導き出した全能の神の御手と解釈するのが自然のように思われる。というのは、6節にも「伸ばした腕と大いなるさばきとによってあなたがたを贖う」(新改訳)とあるからである。そこで、これがパロの手であるという新改訳の解釈は、間違っている。新改訳聖書の訳者は、この短い箇所、すなわち第6章の1節から6節の間の文脈を意識せずに訳しているとしか思えないのだ。聖書を読んで、そこに書いてある意味を受け取ろうとしていないのだろうか。

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