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2009/05/07

主の御名によって祈る?

創世記 第4章
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(新改訳)
(26) セツにもまた男の子が生まれた。彼は、その子をエノシュと名づけた。そのとき、人々は主の御名によって祈ることを始めた。
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(新共同訳)
(26) セトにも男の子が生まれた。彼はその子をエノシュと名付けた。主の御名を呼び始めたのは、この時代のことである。

 「主の御名によって祈ること」は、主イエス・キリストが初めて私たちに教えてくださったことだと私は理解している。それまでは、私たちはそのようなことをして良いということすら知らなかったし、そうしようにも、そのようにして良いようには、御名が私たちに与えられていなかった。それは、主イエス・キリストが十字架と復活により勝ち取られた勝利により、私たちに与えられたものだ。そこで、特にこの「主の御名によって祈る」と言うときに限っては、「主の御名」とは、私たちに与えられた「主イエス・キリスト」という御名のことである。
「この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」 (新改訳聖書 使徒4:12より)
 そこで、新改訳が言っている「主の御名によって祈る」とは、この後にも随所に出てくるが、まったく意味の通らないものである。たぶん、新改訳の訳者は、新約聖書における福音の内容に整合させて、あるいはそれを先取りして、このような倒錯した言葉遣いをしているのだと思う。あるいはまた、モーセの律法により、「主の御名をみだりに唱えてはならない」とあるので、この箇所においても、主の御名をみだりに唱えさせることを制御しているのかもしれない。しかし、そのようなことが果たして適切だろうか。モーセの律法は、このときにはもちろんまだ与えられていなかったわけだし、旧約の時代にそのような表現を用いてしまったら、主イエス・キリストの日に大いなる恵みが現れ出でるまでの、壮大な神の救いの歴史が歪曲されて理解されてしまうことになるのではないだろうか。

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堕落と追放の脈絡

創世記 第3章
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(新改訳)
(23) そこで神である主は、人をエデンの園から追い出されたので、人は自分がそこから取り出された土を耕すようになった。
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(新共同訳)
(23) 主なる神は、彼をエデンの園から追い出し、彼に、自分がそこから取られた土を耕させることにされた。

 新改訳が言うように、人が土を耕すようになったのは、「神である主が、人をエデンの園から追い出された」からなのだろうか。そうではない、人が地を耕すようになったのは、第2章15節にあるように、彼がまだエデンの園から追い出される以前に、「神である主は、人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた」からであった。つまり、神は人に、エデンの園において与えられた仕事を、エデンの園を追い出された後においても、取り上げられずに与え続けられたのであった。新共同訳の訳が正しいと思われる。しかしそれは、エデンの園におけるような祝福された労働ではなく、苦痛を伴うものに変質してしまっていた。人が罪を犯し、神がそれに対して裁きを宣告されたからであった。そのように受け取るとき初めて、第3章19節の「あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついに、あなたは土に帰る」という神の裁きの言葉が心に迫ってくる。新改訳を読むと、エデンの園において神から人に与えられていたすばらしい祝福、そしてそれと対照的な人の犯した罪、その恐ろしい結果、これら一連の重要な筋道が、なんの脈絡もなくばらばらにされて、効力のないもの、味も素っ気もないものにされてしまうのだ。

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