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2009/05/06

大いなる水

創世記 第1章
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(新改訳)
(1) 初めに、神が天と地を創造した。
(2) 地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。
(3) そのとき、神が「光よ。あれ。」と仰せられた。すると光ができた。
(4) 神はその光をよしと見られた。そして神はこの光とやみとを区別された。
(5) 神は、この光を昼と名づけ、このやみを夜と名づけられた。こうして夕があり、朝があった。第一日。
(6) ついで神は「大空よ。水の間にあれ。水と水との間に区別があるように。」と仰せられた。
(7) こうして神は、大空を造り、大空の下にある水と、大空の上にある水とを区別された。するとそのようになった。
(8) 神は、その大空を天と名づけられた。こうして夕があり、朝があった。第二日。
(9) 神は「天の下の水は一所に集まれ。かわいた所が現われよ。」と仰せられた。するとそのようになった。
(10) 神は、かわいた所を地と名づけ、水の集まった所を海と名づけられた。神は見て、それをよしとされた。
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(新共同訳)
(1) 初めに、神は天地を創造された。
(2) 地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。
(3) 神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。
(4) 神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、
(5) 光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。
(6) 神は言われた。「水の中に大空あれ。水と水を分けよ。」
(7) 神は大空を造り、大空の下と大空の上に水を分けさせられた。そのようになった。
(8) 神は大空を天と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第二の日である。
(9)神は言われた。「天の下の水は一つ所に集まれ。乾いた所が現れよ。」そのようになった。
(10)神は乾いた所を地と呼び、水の集まった所を海と呼ばれた。神はこれを見て、良しとされた。

 初めに神が創造されたのは、「天」と「地」という二つのものだったのだろうか。このときはまだ、新共同訳の言うように「天地」という一つに認識されるものだったのではないだろうか。というのは、6~8節において神は、初めて天をとりわけ、そして9節において、「天の下の水は一所に集まれ。かわいた所が現れよ」と言われ、それからこの「かわいた所を地と名づけ」られたのだから。そこで、新改訳が言うように、「何もなかった」のではなく、確かに何かがあったのだ。新共同訳では、それを「混沌」と言い表している。
 また、新改訳において、2節に「大いなる水」と言われているのは、「大いなる方に」として、全能の神を賛美する私たちにとっては、非常に不自然な形容に思える。
 さらに、新改訳において、4節に「神はその光をよしと見られた」とあり、さらに「神はこの光とやみとを区別された」、「水と水との間に区別があるように」とあるが、ここに書かれていることは、そのような「神側の認識の問題」なのだろうか。そうではなく、新共同訳のように「神は光を見て、良しとされた」、「神は光と闇を分け」、「水と水を分けよ」という、「神が行われた行為」のことを言っているのではないだろうか。
 これらのことから、新改訳聖書は、一連の聖書の記事において、前後の節の間の整合性がとれておらず、つまり自己矛盾をきたしており、言葉使いにおいても、神が成されたことを薄めている。また、神に対して形容されるべきことば「大いなる」を被造物である「水」に対して適用している。訳者の文章力がないのか、国語力がないのか、それとも故意に神の御業を否定し、この箇所を読む者の意識が朦朧とし、聖書の言葉が、心にダイレクトに入らないように、周到な細工をしているように思われる。

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私は、異端者なのか?

 その・・、これは、なんだか気が進まないことでもあるのだが、最近になって、新改訳聖書の翻訳内容に疑問を持つようになってしまった。私の頭が狂っているのか。しかし、どうもそうとは思えない。だからどうも落ち着かないし、どうしたら良いのか分からない。誰か分かる人がいたら教えていただきたい。という意味で、このカテゴリーを立ち上げることにした。
 遠まわしではなく、はっきり言うと、私は、新改訳聖書は、悪魔がこの時代のクリスチャンをだますため、あるいは翻弄するために作り出した、まがい物の聖書のように思えてならない。この聖書を独りで読んでいる限り、神との真実の交わりを実現することはできないように思えるから。こんなことを言うと、きっと多くの人が、天地がひっくり返るほどびっくりするか、それとも青筋を立てて怒り始めるのではないかとも思って大いに心配にもなる。しかし、もう黙ってはいられない。私が間違っているのか、それとも新改訳聖書が私の思った通りのまがい物の聖書なのか、どちらかに決着をつけたいのだ。だから、ここにあえて議論を始めようと思った。
 誤解のないように言っておかなければならないのだが、私は、新改訳聖書を訳した人たちが悪魔の手先だと言っているのでは決してない。これは重要なことなので、誤解しないでいただきたい。そうではなくて、これは私の勝手な推測でもあり、このカテゴリーでこれから展開する議論の主旨に関わることなのだが、どうも新改訳聖書の訳者は、他のメジャーな訳の聖書に比べるとスタッフの数と技量が圧倒的に不足しているように思えるのだ。おそらく時間がなかった関係で、突貫工事的に作業を行い、そのままになっている感がある。改定も随時行われているようではあるが、それは現代において要求の多い、差別語等の言い換えに集中しており、翻訳そのものに対する反省が十分に行われていない感がある。それというのも、限られたスタッフでやっているからなのだろう。どうもそうとしか思えない。新改訳聖書を文学作品として読むとき、その価値の低さを痛切に感じざるを得ないから。そのようなものからは、十分な感動も得られず、訴えかけてくるもの少ない、それは、新改訳聖書を一人で読むときに、そこから得られるものが少ないこと、すなわち神との交流が制限されることを意味する。そして、私が言いたいことは、そのような状況は、新改訳聖書の編纂スタッフの意図ではないということだ。それは、悪魔が持っている意図なのである。たとえ神を信じて、良いことを行おうと思っている人であっても、十分な配慮や神への完全な献身がない場合には、悪魔のつけこむ隙が出てくるのである。つまり新改訳聖書は、編纂の主旨やスタッフの意図は良いかもしれないが、結果的に現代のクリスチャンの神への献身を鈍らせるために、悪魔に利用されていると思われるのであり、これが私の言いたいことなのである。
 誰か、聖書に詳しい人がいたら、教えて欲しい。私が間違っていることを。そうしたら、大いなる平安に包まれるかもしれない。しかし、少なくとも今はそれはない。最初に一つの例を挙げよう。今回だけは、4つの訳を対照して掲載する。次回からは、英語訳は省略したい。

箴言 第30章7,8節の訳について
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(新改訳聖書)
7.二つのことをあなたにお願いします。私が死なないうちに、それをかなえてください。
8.不真実と偽りとを私から遠ざけてください。貧しさも富みも私に与えず、ただ、私に定められた分の食物で私を養ってください。
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(新共同訳)
7.二つのことをあなたに願います。わたしが死ぬまで、それを拒まないでください。
8.むなしいもの、偽りの言葉をわたしから遠ざけてください。貧しくもせず、金持ちにもせず、わたしのために定められたパンで私を養ってください。
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(New International Version)
7. Two things I ask of you, O Lord; do not refuse me before I die:
8. Keep falsehood and lies far from me; give me neither poverty nor riches, but give me only my daily bread.
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(King James Version )
7: Two things have I required of thee; deny me them not before I die:
8: Remove far from me vanity and lies: give me neither poverty nor riches; feed me with food convenient for me:

 論点は、こうである。この箴言の作者が神に願っている二つのこと、それは、新改訳聖書によれば、一つは、「不真実と偽りとを私から遠ざけてください」、もう一つは、「貧しさも富みも私に与えず、ただ、私に定められた分の食物で私を養ってください」、この二つである。そして、この二つを「私が死なないうちに、それをかなえてください」と願っている。
 本当にそうだろうか。「死なないうちに」つまり、「死ぬまでに」それがかなえば良いようなことなのだろうか。決してそうではないだろう。「不真実と偽り」は、クリスチャンならば、今すぐにでも自分から遠ざけて欲しいことであるし、「定められた分の食物で私を養うこと」もやはり、今日から適用して欲しいようなことである。そうではないだろうか。そこで、新共同訳を見ると、「わたしが死ぬまで、それを拒まないでください」となっているし、英語訳もそれぞれ、「do not refuse me before I die」、「deny me them not before I die」となっている。こちらの方が本当に違いない。そして、新改訳聖書の訳はあり得ないと私は断言する。神を愛し、神を求め、神に従おうと願う者は、必ず、必ず、そのように考えるに違いない。もちろん私は、ヘブル語は分からない。しかし、そういう問題ではない。これは、信仰の問題なのだ。だから、この箇所を訳した新改訳聖書の訳者は、神を知らないと思う。信仰を持っていないとさえ思うのだ。そのような人が新改訳聖書を訳しているとしか私には思えないのだ。もちろん新改訳聖書は、一人の訳者が全部を訳したのではないだろう。しかし、それは何の意味もない。新改訳聖書は現に出版され、多くの教会で採用されているのである。本当に私には、このことが信じられない。しかしある人は、聖書も人が訳したものだから、そのような間違えもあるのだろう。順次修正して行けば良いと言うかもしれない。しかしそうではない。新改訳聖書には、このような間違えが、無数にあるのだ。本当に気が遠くなるほど、それは多くある。いつもあきれ返りながら読んでいるのだが、それをこのカテゴリーで列挙してみようと思う。
 願わくは、私がおろかで、間違っていますように。本当に真実な心で願い求めたい。だれか分かる人がいたら、どうか教えていただきたい。

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