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2009/05/02

説教13 捨て去るということの意味について

 「あるものをわたしのために、わたしの名のために捨てる者には、わたしはその百倍を返し与え、さらに永遠の命をつけ加える」と主イエスは言われる。しかしそれはあくまで結果であって、最初から百倍の見返りを求めて捨てるのでは、捨てたことにならないとエックハルトは言う。つまり、「捨てること」の目的が「もらうこと」では、本末転倒となってしまうのである。しかし、あるものを真実な心で捨てた結果、その百倍のものを得てしまうということになるのもまた不条理に思える。上の主イエスの言葉の趣旨は、どこにあるのだろうか。
 もっとも、だれも何か自分の持っている物を失いたいとは思わないだろう。そこで、もし自ら捨て去るということがあるのなら、それはそのものを再び得るためなのである。「恐らく彼がしばらくあなたのもとから引き離されていたのは、あなたが彼をいつまでも自分のもとに置くためであったかもしれません」(フィレモンへの手紙15節)とあり、また「わたしは命を再び受けるために捨てる」(ヨハネ10:17)とある。ここで言われている「受ける」とは、それを捨てたときと違う形で受けることなのである。フィレモンが自分の奴隷であったオネシモを手放したことにより、彼はオネシモを今度は、自分の愛する信仰の兄弟として受けたのであった。また、主イエスは、私たちの罪のために命を捨てられ、朽ちない永遠の命によみがえられたのであった。
 それでは再び、「捨て去る」ということの意味は何なのか。それはまず、私たちが真実に愛することを知ろうとすることから始まる。それを私たちは、キリストの自分を犠牲にする愛の生涯を通して知ることができる。そのように自分を捨てるとき、私たちは父なる神の御心を行う者となる。それはエックハルトによると「父と共に生む者」となることであり、霊的な意味で父となることである。そしてそれは、まず自分の体を生きた聖なる献げものとすることである。肉体は、この世界で神から魂に委ねられた小さな宇宙である。魂が自らこれを捨て去り、その小宇宙との関係が、それまでのような下等な所有関係から本来の関係、すなわち霊的な父としての関係に戻るとき、また神との関係も、愛する父と子の関係に戻るのである。するとどうなるのか。彼は、自らを捨てて、新しい自らとの関係を獲得した。そしてそれは、彼と父なる神との関係でもあったのであり、それを彼は自ら見い出したのである。この関係を通して、彼は父なる神からすべてのものを相続するのであり、この父なる神とその独り子の関係こそがすべてのすべてなのである。
 エックハルトは語る、『これらすべてを父はここ、その独り子の内で生み、わたしたちが同じ子となるように働くのである。そして父が生むことは、父が内にとどまることであり、父が内にとどまることは父が外に生み出すことである。常にあるのは、それ自身の内で湧き出ずる一なるものである。「われ」という言葉は、その一性における神だけに固有な言葉である。「汝ら」という言葉は、「一性の内では汝らは一である」という意味である。「われ」と「汝ら」、この言葉は一性を指し示している。わたしたちがまさにこの一性でありますよう、またこの一性を保てますよう、神がわたしたちを助けてくださいますように。アーメン』。

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