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2009/04/30

説教12 自分自身を脱ぎ捨てるということについて

 「自分自身を捨て去れ」とエックハルトは言う。何のためにだろうか。神の子キリストのようになるためにである。もちろん人はキリストにはなれない。しかしエックハルトは、「あなたの人性とキリストの人性との間にはいかなる区別もない」と言う。つまり、神が人をご自身の姿に創造し、キリストが人と成り、あなた方は私よりもさらに大きな働きをすると言われたから、私たちは、聖書に記されているように、栄光から栄光へとキリストの姿に変えられて行くのであり、その究極は、キリストの姿そのもの、つまり神の愛する一人子なのである。
 そのようにもし、私がやがてキリストのような姿に変えられるというのなら、それはどのようにして実現するのだろうか。それは、決して私の才能や労苦の結果などではなく、百パーセント神の恵みによるのであり、しかも、私の信仰に応える神の恵みなのでもなく、すべてに先行する神の恵みなのであり、それが、「神の根底にかたどって、神より流れ出て、神の内にとどまりつづけるこのわざにかたどって、神は魂を創造した」とエックハルトが言っていることなのである。
 そのようにすべてにおいて、神の御子と同じ構造に造られた魂が神の子とされるために必要なことは、もはや、何かが付け加わるということではなく、むしろ余計な不純物が取り除かれること以外にはない。そして、私がそのことを行うとき、私の魂は、神の子として機能し始めるのである。そしてそのことにより、私の知性もそのことを知覚する。すなわち、エックハルトよれば、「魂が神を受け取るのは、未知の内でもなく、神以下のものでもない。自分以外の別なもののもとにあるものが、未知とか距離とかを持つからである。魂は、光が光を受け取るように受け取るのである。なぜならば、そこには未知も距離もないからである」。
 それでは、そのようにして、人が神の子とされるということは、何を意味するのだろうか。まず、彼の内に旧新約聖書のみことばがすべて成就する。彼はもはや、みことばを他人から教えてもらう必要はない。彼の人生そのものがみことばを証しするものとなり、彼の存在そのものがみことばと成るのである。次に、エックハルトによると、そのように完全に神のものとなった彼にとっては、神もまた完全に彼のものとなるのであり、そのようにして、彼は神と一体となり、彼は神の宮の庭に植えられ、もはや神の元から二度と迷い出す心配がないのである。さらに神の一人子である彼は、神から万物を相続するのである。万物は御子のために創造され、御子は私たちの長子であり、同じ神の子である私たちにそれを与えられたからである。
 しかしそれはいつであろうか。エックハルトによれば、それは「時が満ちるとき」である。その一つは、「すべての時間があなたから失われるとき」つまり「死するとき」であるが、まだ生きているときにもそうなることができるとエックハルトは言う。それは「時間が永遠の内へと入るとき」である。あなたが自分の思いや考えを捨てて、ただキリストに従い行く決心をするとき、あなたにはもはや計画や戦略というものが存在しなくなり、いつも百パーセント神の御心の実現のみを求めるようになる。そのとき、もはやあなたにとって、ものごとの手順というものは、意味を持たなくなる。というのは、信仰の中を歩むあなたにとっては、手順はいつもそのつど神から来るからである。しかしそれは、神がいつも先行して、ものごとに対する戦略をあなたに授けるというのではない。神には、時間も戦略もないからである。時間と戦略は、人間が考え出したものであり、それは神の深いご計画を実現する手段ではあるのだが、神のご計画自体は、それらから影響を受けることもなく、変わることもないのである。そして、この説教でエックハルトが言っている「自分自身を脱ぎ捨てるということ」とは、あなたがこの変わることのない神の永遠のご計画を実現するために、あなたの人生のすべてを投げ出すことなのである。

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