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2009/04/27

説教11 神の子の誕生について

 神の子がこの世界に誕生しようとしていたとき、ナザレという村に天使が遣わされてきて言った、「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」(ルカ1:28)。エックハルトは、この箇所について3つの観察をしている。まず第一に、マリアに遣わされた天使は、神のみ前で、人であるマリアよりも低い位置づけとされていること。第二に、「マリアよ」ではなく「恵まれた方」と呼びかけられていることは、人であるマリアの神から造られたところの大いなる尊厳を表現していること。第三に、このことがここに書き記され、今私たちがそれを霊的な感動を持って読んでいるということは、この天使の言葉が、マリアに向けてだけでなく、大勢の人たちに対して、神を求めるあらゆる善き魂に対して語られたことを意味しているという三点である。
 「生む」ということは、この世界のすべての生物に共通した能力と言えよう。しかし、神の使いから「恵まれた方」と呼ばれたのは人間のマリアだけであった。一方、天使はおそらく生むということすらしないのだろう。しかしエックハルトは、「すべての被造物は、生むことと父と同じになることを願って行為している」と語る。この場合、「生む」という言葉は、霊的な意味、すなわち永遠の意味を込めて使われている。つまり、「つねに生み続けること」が想定されているのである。それは、「まだ生み終わっていないこと」や「生みつつあること」にも似ているのだが、厳密にはそのような中途半端なものではなく、「生む」という本来は短時間の行為が永遠に続くことなのである。
 この霊的な意味における「生む」とは、どういうことなのか。まず、生まれるもの自体は、生むものの内部に留まったままだということである。というのは、一旦生んでしまえば、生まれるもの自体は、生むものの外に出てしまうのだが、その時には、生むという行為もすでに終わっているのである。したがって、「生み続ける」と言った場合には、それは文字通り「生む瞬間」の連続なのであり、生まれるものは、外へと流れ出ながらも生むものの内部に留まったままなのである。
 神は、ご自身の持っているこの「霊的に生み続ける能力」を霊的な存在である人間にも与えられたのだとエックハルトは言う。そして彼によれば、これは「神の言を聞き、それを守る」ことである。というのは、ある女が主イエスに、「あなたを宿した胎はなんと幸いなことでしょう」と言うと、主は、「幸いなのは、わたしを宿した身体だけではない。幸いなのは、神の言葉を聞き、それを守る人である」と答えたからであり、また、みことば自身も神と言われており、父なる神の元から発し、外へと流れ出ながら、神の元に留まり続けているからである。
 それでは、この「生み続けること」の目的は何であろうか。それは、エックハルトによれば、「わたしが父となり、わたしを生んだ父を生むように」ということである。生むことは、霊的には、三位一体の父なる神に帰属するから、私が持っている「霊的に生む」能力は、私の霊的な父性に帰属するのある。しかしこの能力は、かつてアダムの堕罪により失われてしまった。それを回復するためにキリストがマリアから生まれられたのである。どのようにして回復するのであろうか。私たちが父の元に戻ることによってである。私が父の元から離れている間は、私の生む能力は、死んでいるからである。
 しかし、私の父性というこの根元的な力を私が取り戻すということは、いったい何を意味するのだろうか。それは、実に私が父になるということを意味するのである。それは私が、神の一人子の一人として、再び父なる神の元に帰り、自ら霊的な父となり、神を霊的に生む、すなわち「神の言葉を聞き、それを守る人」となることである。それは、表面的には、お行儀の良い、しかしあまり目立たない地味なクリスチャンとなることのようにも見える。しかし、エックハルトによると、そのとき私を父の元へ連れ帰るのは、私の花婿としての神の一人子なのであり、彼が歩み出てきた元のところは、その最も高き場、すなわち秘められた父性の静粛な闇なのである。そして、彼は私をその静粛な闇に連れ帰り、その秘められた神性の隠された秘密をそこで私に明かそうとされるのである。ああ主よ、もしそれがあなたの御心ならば、どうぞそのように、この身になりますように。

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