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2009/04/20

説教9 自分の魂を憎むということについて

 「自分の命を愛する者は、それを失い・・」と主イエスは言われた。その意味は、「この世界で、自分の生活や身体のことに執着し過ぎて、目に見えない霊的な事柄、すななわち魂をなおざりにしてはならない。というのは、身体が滅びても、魂は永遠に続くからである」という意味であった。しかしエックハルトは、この世において憎むべきは、身体よりもむしろ魂の方だと言う。
 ここで彼は、実は「魂」という呼び名で、「魂そのもの」ではなく、「私たちの意識が魂について知覚するもの」を指して言っているのである。というのも、私たちの知性は「魂そのもの」を知覚することができないからである。つまり、「この世において、自分の魂を愛する」とは、自分が物理的にも霊的にも豊かになろうとして、様々なものを精神の中に取り入れると共に、そこに様々な論理的な構造、すなわち概念や考え方、政策や戦略を構築することを意味する。そのようにして、心の中にたくさんの蜘蛛の巣を張ってしまうのである。その結果魂は、非常に窮屈なところ、私的な巣窟と化してしまうのである。しかし、魂とは本来、神を礼拝し、誉め称える神殿なのであり、そのためには、あらゆる先入観や策略から自由になっていなければならない。それが、エックハルトの言う「魂を憎む」という行為により可能となるのである。
 人が自分の魂を憎むべき理由を、エックハルトは3つあげる。第一は、人は魂に対して、自分の身体や持ち物に対するような所有権を行使することはできないからである。というのは、魂自体は、通常の感覚では、触れることも感じることもできないものなのであるが、人は自分の魂を自分の肉体の延長と勘違いするのである。そして、肉体を愛するようにそれを愛してしまうのであるが、それは、魂を愛するどころか、むしろ損なうことになってしまうのである。この呪縛から逃れるためには、人はこの世界では、自分の魂に対する所有権を放棄し、完全に神に委ねなければならないことになるのである。次に、魂自体もこの世界においては、まだ未完成な状態だということであり。そのような状態のものを愛するというのは、一種の見当違いと言えることだからであり、かと言って、人は魂をどのようにして成長させればよいのかを知らないのである。第三に、人が、霊的な存在である神を、魂を通して知覚しようとすることは、一見もっともらしいことに見えて、実は正しくないことだからである。エックハルトによれば、神は、この世界においては、聖書を通して私たちの知性に働きかけられ、歴史を通して私たちの知性で明らかに知られる神なのであり、不可解の神ではない。そこで、そのように、明確にご自身を啓示しておられる神に、なにか不可解な方法でアプローチしようとすることは、的外れなことなのである。
 この説教の最後で、エックハルトは、聖書からひとつのパッセージを引用している。「エルサレムのおとめたちよ、どうぞ、そんなに見ないでください。日焼けして黒くなったわたしを。太陽がわたしを焼いたのです。わたしの母の子供たちがわたしを叱ったのです。」(雅歌1:5、6)人は、この世を生きるときに、自分の魂に様々な装いをまとわせようとする。しかし、それらの個人的な試みは、魂を美しくするどころか、返って醜くしてしまう。それを見た、魂の下位の諸力は、日焼けした魂を見て、美しくないと言って叱るのである。それゆえ魂は、その本来の美しさに留まりたければ、そのような思いから立ち去らなければならないのである。「だれにもまして美しいおとめよ、出てゆき、立ち去りなさい。」(雅歌1:8)

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