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2009/04/16

説教8 神のために神を捨て去るということについて

 この説教の一見突飛なタイトルについて正しく理解するためには、それが対象としている人間に要求される条件についてまず理解しておく必要がある。それは、エックハルトの言葉を借りて言えば、「自分自身を完全に捨てきった人」と言うことができる。しかし、自分を捨て去っていない人、すなわち自分に固執している人が神を捨て去るということがもしあるのなら、それはまさに自殺行為、いや滅び行為とでも言えるものである。ちょうど、自殺が神への反逆であるのに対して、友のために命を捨てることよりも大きな愛がないのと同じように、友のために神を捨て去ることは愛なる行為であるが、自分の思いにより神を捨て去ることは、永遠の滅びに至る危険な行為なのである。つまり、命にしても神にしても、それを捨てる場合、「捨てたもの」に神が目を向けられるというのではない。神が関心を持たれるのは、捨てる心、つまり「何のために」ということなのである。そして、その捨てるという行為が自分のためでない場合、それは自分を捨てるという行為となるのである。そこで、人がもし彼の持っているすべてのものを、彼がそれを捨てたことに対しての見返り、すなわち神が彼にそれと同等以上のものを返されるであろうことを期待して捨てるならば、そのとき彼は、実は何一つ捨てたことにならないのである。そこで、彼は、自分が行った「捨てる」という行為により、何も報酬を受け取ることはない。しかし、彼が何の見返りも期待せずにあるものを捨て去るならば、それは、文字通り捨て去ったことになり、神は彼に、彼が捨て去ったもの以上のものを再び与えられるとエックハルトは言う。
 そこで、この自分を捨てるということは、絶えざる物欲の超克と言える。そして、そのように行う人は、神に愛される。というのは、その人は、すべての人を自分と同じように愛することができるようにされるからである。その究極は、使徒パウロのように、神から離れた同胞のためなら、自分の方がむしろ神から引き離されることさえ願うことである。というのも、カルバンの予定論によれば、救われて天国へ行ける人の数は決まっているかも知れないからである。まあ、その信憑性は置くとしても、神が愛するのは、同等性なのであり、この世界には、一見不平等に見える様々なことがらがあるが、それらを始め、人種や能力の違い、貧富の差、等々も、すべてのものに等しく与える神の配剤の結果に他ならないのであり、神ご自身は等しさを愛される、等しさそのものであるお方であり、人の心をすべてご存知だということである。
 エックハルトによると、神の好まれる同等性は、人が神のために捨てたすべてのものと神がその人に新たに与えるものが相等しいまでに徹底している。それゆえに人は、安心して神のためにすべてを捨てることができる。しかし再び、そのすべてを捨てるということが、自分のためではないことが要求される。つまり、何かの見返りを期待して、すべてを捨てるというのなら、それでは、何一つ捨てたことにはならない。つまり、すべてを捨てるということは、その結果、神が彼にすべてを返されるということをまったく期待せずに捨てることを意味するのである。そしてそのとき、初めて彼はすべてを捨て去ったことになり、同等性の神は、彼が捨て去ったもの以上のものを彼に再び与えられるのである。これが、神の真実であり、平等性であり、愛なのであり、あなたはそのようにして、神の子とされるのである。

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