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2009/04/15

説教7 純然たる無である被造物について

 神秘主義というものは、この現実世界の中に霊的世界への入り口を発見する。しかし、それはこの世界のできごとにおける「発見」とは、大分意味が異なっている。というのは、たとえば新しい生物種が見つかったとか、人種が見つかったとか、あるいは凶悪事件の犯人が見つかったとかいう場合には、マスコミが我れ先にそれを取り上げ、今までベールに包まれていた事柄が、多くの人の目に触れるところとなる。その場合、人々はこぞってその報道に耳を傾け、テレビや新聞、週刊誌に掲載された赤裸々な画像に見入る。しかし、それらの謎が解けるやいなや、早くもそれらに対する興味を失い、それらの新しい事実も彼らの記憶から、やがて消え去って行く運命をたどることになる。
 しかし、神秘的、すなわち霊的な事柄ではそうはいかない。たとえ神秘主義の達人であるところのエックハルトがその一かけらを彼の説教の中で、その巧みな弁舌で語り出そうとも、その神秘が万人の認識の前に明らかにされるというのではない。むしろそれは、多くの人の認識に対しては、依然としてベールに隠されたままなのである。エックハルト自身も、彼の説教を理解できるのは、ごく少数の人だけであると言っている。というのは、彼が解き明かすものは、実は、神秘そのものではなく、その探求の仕方なのである。これこそが神秘主義に共通することであり、その本質なのである。神秘は、すなわち霊的なことがらは、万人に明らかにされるといことはない。そればかりか、それは常に個人に向けてのみ開かれるのである。それに対して、神秘の探求の仕方自体は、万人に対して提示されるのであり、エックハルトはそれを説教の中で明らかにしているのである。
 そこで、「純然たる無である被造物」というエックハルトの発見は、万人に明らかにされた事実ではなく、それ自体が実は方法論というか、一つのアプローチなのである。つまり、言い方を変えれば、エックハルトが提示しているのは、被造物を純然たる無と見るアプローチなのであり、それにより、霊的世界の本質が見えて来るのである。と言うのも、被造物を見る限り、この世界は崩壊に向かって動いているように見えるのだが、そしてそれは、科学的に見たときには、ビックバンから始まる宇宙生成とその後の膨張、そしてまだらの宇宙へ向けた凝集期を経て、更なる質量の集中を経た途方もない崩壊へと突き進む大きな流れの中における、それらとは比べ物にならないほど微小な変化としての私たちの棲む地球の温暖化という、人間には意味の分からない現象の集まりのように見える時間の流れなのであるが、それは実は、約六千年前に神により創造され、一つの「完成」に向かって動いている大きな流れなのである。この完成とは何であろうか。まず、旧約聖書において、ものごとの基礎、すなわち神と人との間で基本的な契約が取り交わされた。その準備として、創造、堕落、選び、犠牲、約束、祭儀、神殿建築等々、様々な前提があったが、時が至り、律法が与えられ、それによる神と人の厳格な契約が取り交わされたのである。これが旧約聖書の全体であるが、これらのことは、過ぎ去った過去の遺物なのではい。それは、それ自体一つの完成とも言えるのだが、同時にそれは、神の御子がこの世界に遣わされて、全人類と新しい契約を結ぶための前提だったのである。そして、それらの全体は、終わりにおける完成を目指して急いでいるのである。今述べたように、ここに二つの流れが想定されることに注目すべきである。一つは、科学的な目、すなわち被造物至上主義から見た崩壊のシナリオ、そしてもう一つは、被造物を純然たる無と見たアプローチによる完成へのシナリオなのである。

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