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2009/04/14

説教6 神の根底にまで究めゆく力について

 前の説教でエックハルトは、信仰における認識の重要性を説いた。しかし、それにしても、認識という力はどこまで有効なのだろうか。たとえば、伝統的な信仰(私は、この中にカリスマ信仰まで含めて考えているのだが)においては、認識は決して最後まで行き着けない。パウロが言うように、私たちが知るところは、今は部分的でしかない。そして、全体を知るのは、「かの日」すなわち、死ぬ時かまたは、キリストの再臨の日かであろうと考える。それゆえ、この世においては、私たちは、すべてを認識することをあきらめ、信仰に身をゆだねる。そのように、あるところまでは知ることを許されるが、残りの部分を信じることを、私たちは神から期待されているのである。
 しかし再び、それはどこまでであろうか。信仰者の間でも、神を知る知識において個別差があるように思われる。たとえばパウロは、かつて第三の天にまで引き上げられ、人間が通常は聞くことを許されない言葉を聞いた。それは、彼が自分自身を誇るほどすばらしい体験であった。そのように、キリスト者の間に、神を知る知識において差があり得るのなら、信仰は、その間を埋めるためにあると言うことができるかもしれない。それにより、知ることの少ない人も、真理であるところの聖書の言葉を信じさえすれば、それを認識において知っている人と同様の働きが可能とされるのである。
 それでは、キリスト者は、神を知る知識において、どこまで進むことができるのだろうか。この説教の題により、エックハルトは「神の根底にまで究めゆくこと」が可能だと言っている。しかし「神の根底まで」と言っても、それはなお「最後まで」ではない。エックハルトによると、神ご自身もご自分のすべてを最後まで把握されておられるわけではないという。すなわち彼によると、神の中に、神ご自身も完全に知ることのできない「静粛な暗闇」と彼が言っている部分が存在するのである。そこで、私たちは、この世界を生きるときに、やはり信仰が必要とされることだけは確かと言えよう。それゆえ、エックハルトの説くところは、聖書と比べても、それほど特異ではないと言えるかもしれない。
 それでは再び、エックハルトが「神の根底まで究めゆく力」と言っているのは、どういうものなのだろうか。まず彼によれば、私たちは神に関する知識を求めて、自分の中から外へと出て行く必要はない。たとえ外に出て行ったとしても、そこで神を認識することはできない。「触れたり、触れられたりするようなものすべてにとっては、神は遠く見知らぬものだからである」と彼は言う。それに対して彼はまた、「神は神の全神性をたずさえて魂の根底にいるのである」と言う。それは、私たちが神の御姿にかたどって創造されたからである。「神の独り子と魂との間にはいかなる区別もない」とエックハルトは言う。それは、イエス・キリストが真の神であり、また真の人であるということに対応して言っているのである。そして、その彼の方法論はと言えば、「造られた一切の事物から自由となり、真理の真なる鍵をかけて、自分自身の内にしっかりと閉じ籠もること」なのである。この「一切の事物から自由となる」とは、空間的な制限を越えるということであり、そのような人には、もはや距離というものは意味を持たない。そればかりか、実に時間さえも超越される。時間とは、人間が考え出したものであり、エックハルトによれば、それは天の運行に由来するのだが、それはまた、永遠からの脱落により生起するものなのである。しかし、神に喜ばれる人は、この天の運行を、最初の日と知覚する。この日は常に新しくみずみずしく、その中に万物は生きて活動しており、永遠の時がその中にあるのである。それに対して、魂が今という瞬間をこの現実世界で知覚するそのときに、その人に対して万物が創造され、神の御子が生まれ給うのである。この誕生と知覚、すなわち認識は、私たちがこの世界に生きている限り、絶えず繰り返される。しかもそれは、連続的に生起する永遠の営みなのである。
 エックハルトは、私たちが神に喜ばれる者となるために祈る。「私たちが自分を、知性の日と時とにおいて、知恵の日において、義の日において、そして浄福の日において、内面に見出すよう、父と子と聖霊が助けてくださるように。アーメン。」

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