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2009/04/13

説教5 知性と意志とについて

 ここで語られているのは、私たちが神とつながることにおいて本質的なのは、知性なのか、それとも意志なのか、ということである。もっとも、福音信仰においては、意志の方を重要視する傾向にあるようだ。それは、宣教においては、福音を聞き、すなわちそれを通して、神の御心と自分の罪を認識し、ついには「悔い改めに至る」ということが必要であり、これが意志の範疇に属するからである。つまり、宣教においては、福音内容の認識は悔い改めの為であり、この意味で知性よりも意志が重要視されるのであり、キルケゴールが彼の実存神学において展開したのは、そのことであった。
 しかし、上記のことを、今度は信仰生活において考えてみた場合にはどうであろうか。信仰において重要なのは、もちろん「従順」であり、これもまた「意志」の範疇に属すると考えるかもしれない。しかし、必ずしもそうではない。というのは、信仰生活においては、不従順というものは、厳密にはあり得ないからである。つまり、宣教においては、福音を宣べ伝えられた者が、それを信じるかどうかということで、意志が重要となる。しかし、信仰においては、信じないということは想定されていない。それが信仰というものなのである。そこで、信仰の領域では逆に、意志は問題にならない。信じるという意志は、当然のこととして前提されている。そこで、この場合には、信じるために、より多くの神の御旨を認識するということが問題になるのであり、それゆえに、認識こそが決定的な要素となるのである。すなわちそこでは、私が認識するものが神から来るのである限り、その全体が私の信ずべきもなのであり、そこにおいては、認識即信仰なのである。
 エックハルトの神学が、認識に絶対的な基礎をおいているのは、そのためである。そして彼は、「神が知性的であり、私がそのことを認識しているただそのゆえにのみ私は浄福なのである」と言う。そのように、信仰の世界では、すべてが知性的であり、すべてのものは認識に基礎を置いているのである。
 しかし、彼がこの説教の中で引用している十の存在カテゴリーとの関係における、さらに高い神との関係が想定される。それを彼は、「譬え言葉」と呼んでいる。「譬え言葉」、それは、実に認識の先にあるものである。つまり、それは言葉である限りにおいて、自己をオリジナルに提示する。しかし、その提示するオリジナルなものは、実に神の譬え言葉なのである。彼はそれを神から聞いて認識したのではない。彼自身がそのように造られたものなのであり、彼はひたすら自分自身を認識しているのである。そして、その限りにおいて、彼が自身を提示するその提示は、神のように正しいものであり得るのである。エックハルトは語る、『神の浄福は知性が内に向かって働くことの内にある。その際、言葉は内にとどまったままである。自分自身の内で漂うこの認識の中で魂の浄福を造り出すためには、魂はそこでひとつの「譬え言葉」でなければならず、神とともに一なるわざを働かなければならないのである。つまり神が浄福であるその同じ認識の内にあって。私たちが常にこの「言葉」のかたわらでひとつの「譬え言葉」であるよう、父と、いま述べたこの言葉と聖霊とが私たちを助けてくださるように。アーメン。』

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