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2009/04/10

説教3 なぜという問のない生き方について

 人はこの世に生まれ、そこで最善に生き、充実した人生を歩もうと、あらゆる努力をする。「何の為に生きるのか」、これが彼の根元的な命題であり、一生の課題なのである。
 しかし、ここにそれを見つけた人がいると仮定してみよう。彼はそれをどのように説明するだろうか。しかし、「彼は、それを説明することなどない」とエックハルトは言う。なぜなら、それは絶対の真理であり、逆にすべてのものがそれによって説明されるべき或るものなのである。もしそれが何か他のものにより説明され得るとしたならば、それはもはや根元的な真理ではあり得ないことになろう。
 そこで、その真理を見いだした人は、彼の人生についてこのように言うだろう、すなわち「私は、生きるがゆえに生きる」と。それは、彼が見いだした真理により、彼の人生自体もまた真理となったからである。真理は、かく振る舞うのであり、なに人も、真理を知りながら、それを使わずにしまっておくことはできないのである。そのことをエックハルトは、彼流の熱意ある調子で語る、「たとえば、わたしに金持ちの兄弟がいたとしても、わたしが貧しい男であれば、そのことが何の助けとなるであろうか。あるいは、賢い兄弟がわたしにいたとしても、わたしが愚かであれば、そのことが何の助けとなるであろうか」と。
 信仰者についてもちょうど同じことが言える。彼が神に従うのに、何か理由をつけながら従っているなら、それは信仰的ではない。そればかりか、彼が自分の意志によって神に従っていても、それが信仰的ではない場合があるかも知れない。もし彼がその行為のときに「なぜ?」と問うことがあるのなら。しかし彼の意志は、理由のないものを受け入れられるだろうか。ところが彼自身が真理の外に立っている限り、彼は「なぜ?」と問わざるを得ない。そのようにして、彼は、外的な要求と自分の意志と真理との関係から、自分の行為の妥当性を判断せざるを得ないのである。そのようにして、人の人生は相対的な状態に留まることになる。そのような人は、永遠に安らぐことはない。というのは、彼の心が神と等しくならないない限り、彼の意志は常に上記のような相対的な葛藤の中に置かれたままだからである。そこで、たとえ彼が神の御心を行ったとしても、彼は平安を得ているのではない。彼の心は、「なぜ?」と問い、彼は、自分を打ち叩いて神に従わせているのであり、その際、彼の「なぜ?」との問いは、答えられないままに残されるからである。
 この状況から脱するためには、何が成されなければならないだろうか。しかし実は、彼が信仰者の場合には、それがはっきりしているのである。それは、彼が神の意志こそが絶対の真理であることを認めて、自分の意志をすべて断念することである。そうすれば、彼はもはや迷うということはなく「なぜ?」と問うこともなくなるだろう。しかしそれでは、彼にとって神は絶対的な暴君のような存在となってしまい、彼は文字通り、がんじがらめに縛られた不自由な存在となり果ててしまうのではないのか。
 しかしエックハルトによれば、そうではない。彼が自分自身への執着から離れたその瞬間に、驚くべきことが起こる。神もまたご自身から離れられるのである。エックハルトは言う、「この両者が共に離れるとき、そこにあるのはひとつの単純な一である。この一なるものにおいて、父はその子を最内奥の泉に生む。そこに聖霊が咲き出で、そこにひとつの意志が神の内に湧き出でる。この意志は魂に属するものである」と。
 エックハルトによれば、人の心は、神の業の一つであり、それは神の元から発し、人に属するものである。ちょうど、彼自身が神の元から生まれ、この世界に来たったように、この新しい心が神の元から来るとき、彼は、自分がどこから来たり、どこに属し、そしてどこへ行こうとしているのかを真に知るのである。

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