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2009/04/09

説教2 魂の内にあるひとつの力について

 「一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女がイエスを家に迎え入れた。」このルカによる福音書10章38節の記述を、エックハルトは次のように言い換えている。すなわち、「われわれの主イエス・キリストが、ある城に入ると、女である一人の処女に迎え入れられた。」
 かつて主イエスに会った人々は、それぞれに異なった対応をした。ベタニアのマリアは、高価なナルドの香油の壷を割って、イエスの髪に注ぎかけた。そのとき彼女は、主イエスを救い主としてではなく、死に行く一人の人として迎えたのである。取税人ザアカイは、主イエスをかけがえのない友として迎えた。主イエスは、彼に何も成されなかったが、ザアカイは、主イエスの行為よりも彼自身を友として得たことを何よりも喜んだのである。
 そのようにあなたが主イエスに出会うとき、すなわち主イエスがあなたの心の中に入って来られるとき、あなたがどのような人かに従って、あなたは主イエスとの関係を築くのである。例えば、あなたがビジネスマンならば、そのようなあなたにとって、主イエスがあなたのビジネスに栄光を現してくださり、あなたのビジネスを祝福で満たし、ビジネスを通して、あなたを用いてくださることが何よりも願わしいと言えよう。
 しかしエックハルトは、そのように主イエスを心に迎える人のうち、もっとも幸いな人は、処女のように偏見の無い人であるという。つまり、その人は主イエスを自分の考えや境遇により迎えるということをしない。何の下心も偏見も、背景も準備も、また策略も政策も無しに、その人は主イエスと接し、主イエスとの関係を築くのだと言う。つまり、その人がどのように人生に長けており、良き思い、良き政策、良き意思を持っていたとしても、主イエスご自身が持っておられるご計画に従うこと以上にすばらしいことではあり得ない。つまり、主イエスに処女のような心で接し、従うこと以上にすばらしいことはないと言う。しかし、エックハルトは、さらに良いことがあるという。それは、主イエスに処女のように接し、従うことよりもさらに良いことであり、それは、実を結ぶということである。実を結ぶとは、自分の成果を出すというような愚かなことではない。神の成果、天国の実を結ぶということである。それは、神の賜物を用いて、神の油注ぎの中で神のご計画を実行し、その刈取りをすることであり、すべてが天的なことなのである。そのようにして、人は主イエスに対して処女であり、また同時に女であることにより、この世界でもっともすばらしく豊かな実を結び、主イエスと共に輝きを放つことができる。
 ああしかし、たとえそのように有り得べき、考えられる限りのすばらしい主イエスとの関係が実現したとしても、それは、あくまで主イエスとその人の外的な関係に過ぎないとエックハルトは言う。たとえ主イエスがその人の心の中に入られ、その人を動かすまでにその人が主イエスに極限まで従順になろうとも、それは所詮、主イエスとの外的な関係なのである。しかし、驚くべきことに、主イエスは本当は、その人の心の奥底、すなわちエックハルトが「魂の城」と呼んでいるところに迎えられているのである。そこにおいては、主イエスとあなたの関係は、もはや外的な関係ではない。その「魂の城」においては、主イエスはもはやあなたにとって他人なのではない。そこでは、主イエスはあなたと一体なのであり、一つの心を共有しておられるのである。聖書に、「私たちには主の心がある」と書かれている通りである。このことを認識した人は、もはや苦労して主イエスとの関係を築こうとは思わない。主イエスは直接にあなたの心なのである。そのように、あなたはもはや神の一人子なのである。聖書に「キリストの中に自分を見出す」と書いてある通りである。
 自分の中のこの「魂の城」に気づき、それを認識し、そこでのみ主イエスとの関係を持つこと、それがエックハルトが彼の魂を担保に差し出すほどにすばらしい、根元的なことなのである。なぜなら、そのときあなたは、自分が神の愛する一人子であることを見出すことになるのだから。

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