« 2009年4月6日 | トップページ | 2009年4月9日 »

2009/04/07

説教1 魂という神殿について

 「人間の魂というものは、被造物のうちでただ一つ、神が驚くべきしかたで、ご自身の形にみごとに創造されたものだ」とエックハルトは言う。しかしそれは、また驚くべきことに、個々の人間に与えられて、彼の自由にゆだねられているのである。そこで、このような一見非常に不自然な状況における、本来あるべき姿とは、どういう状態なのか、そして、そこへと回帰するにはどうしたらよいか、そしてその結果どのようなすばらしいことが起こるのかをこの説教においてエックハルトは述べるのである。
 それでは、神ご自身と見間違えるほどみごとな作品であるところの「魂」を人は、どのように取り扱っているのか。まず、彼はそれをもって、自分自身を喜ばせているのである。それ自体は、悪いことではないだろう。しかし、彼はその喜びを他人から盗み取って来るのである。競争や取引により、彼はそれを狡猾に手に入れるのである。次に彼は、それをもって自分の思いを実現するのである。彼は生まれつきには、神の考えを知る方法を持たないから、彼の心が思うままを生きるしか方法がないのである。3つ目に彼はそれをもって、自分の好きなことを考えるのである。しかも1日中、ことによると一生の間、彼はただひたすら、自分の好きなことのみを考え続けるのである。
 ああ、それは、どれほどの浪費であることか。第一に、そこからは、何も有益なものは生まれて来ない。第二に、それによっては、彼自身も永遠に満ち足りることはない。第三に、彼を創造された神もそれを喜ばれないのである。
 人の魂は、聖書においては、「神殿」に例えられているとエックハルトは言う。主イエスがエルサレムの神殿に入られると、そこでは多くの人たちが商売や取引をしていた。主イエスは、縄で鞭を作り、彼らをそこから追い出された。そのようにして、神殿の中に、ただ主イエスだけがおられるようにされた。この神殿が本来の姿になるためには、彼ら(つまり生まれつきの心)に言い聞かせるというような手段では不可能だったのであり、ただ彼らを追い出すことによってのみそれが可能だったのである。
 私たちが、自分の魂なる神殿を、神に創造された本来の姿にしようと思うのなら、その方法はただ一つ、自分の考えをすべて捨てなければならない。つまり、自分を捨てて、日々十字架を背負うということである。もしこの一点が成されるなら、そのとき、この神殿は、ついに神のものとなる。おおそれは、何と言う畏れ多いことだろう。一度人間に与えられたものが再び神のものとなるということは。しかし実はそれは、彼が神に彼自身を奪われるということではない。神は、彼から何ものをも奪うことはない。もしそのようなことがあるなら、神は最初から彼に何も与えなかったであろう。そうではなく、それは実に、神が彼のものとなるということなのである。そしてそのとき、彼は知ることになる、自分がどのようなものであったのかを。彼が自分に固執していたときには、決して知ることのできなかったものが、今や彼の心に明確に認識される。自分は、このために創造されたのだということを。そのとき彼は、初めて彼自身となる、つまり根源的な自分自身に回帰し、永遠の平安を獲得する。なぜなら、彼は、神から神ご自身にかたどって創造されたのであるから。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2009年4月6日 | トップページ | 2009年4月9日 »