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2009/04/01

第15章 異言の解き明かし

 「私たちは互いに愛に根ざして、どのクリスチャンを通してでも、神様は近くにいる人々にすばらしい信仰と希望のメッセージを語りたいと願っていることを知らなければなりません」とビル・サブリツキーは言う。そこで神様は、語る人と解釈する人を分けられたのかもしれない。そうすれば、語るのは誰でも語ることができる。そして、その解釈も、神がみ心のままに、供えある人に与えられるのであり、そのようにして、神は集会をご自身の臨在に溢れたところにしたいと願っておられるのである。それは、私たちを主イエス・キリストにおける恵みによってご自身の子とされたところの永遠の愛によるのである。
 これは、私には殆ど信じられないほどすばらしいことである。しかし、もしそれが真理だとしたら、そのような大きな恵みを私たちは、教会の集会において、余すところなく受け取ることに力を注ぐべきではないだろうか。
 それにしても、それはどのように行われるのか。ビル・サブリツキーによれば、こうである。すなわち、「異言のメッセージが語られた後、解き明かしのためにしばらくの時間が必要です。ここに集会の指導者には、賢く解き明かしを扱う大きな責任があります。しばしば神様は集会に出席している人に説き明かしを与えられていますが、その人がそれを語る為には、少しのきっかけが必要です」と。これは、高度な霊的コミュニケーションであり、その管理を神は、集会の指導者に委ねておられるのである。そしてこの霊的コミュニケーションの場にいる者は、そこにおいて展開される大いなるドラマの中で、霊的な感覚を養われ、神の愛を実感し、また、個人的な祈りや信仰生活におけるその実践により、神を深く体験し、また自らがキリストの僕であることを力強く証しするのである。

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第14章 異言

 私が初めて異言が語られるのをを聞いたのは、友達の引っ越しを手伝いに行った場所で偶然入った教会でであった。その教会は、明らかにペンテコステ派であり、集中祈祷の時間があり、あちこちから耳慣れない言葉が聞こえていた。それから後、カリスマの超教派団体に加わるようになって、異言を聞く機会も比較的日常的になってきたが、それでも、異言の解き明かしを聞いたことは数えるほどしかない。たぶん、それを日常的に教会活動に導入している教会は、非常に少ないのではないだろうか。
 しかし、ビル・サブリツキーは、「異言でメッセージが語られた場合、解き明かしを伴うことが大切です。そうでないと、混乱が起きます」と言う。この異言が語られるということと、それが解き明かされるということの間には、大きな違いがある。というのは、解き明かされるということは、その異言が公的であることを示しており、それゆえそれは、神が教会の為にある人の異言を通して語っておられるのである。しからば、それが預言ではなくて異言という形態をとる意義はどこにあるのか。
 異言が預言と異なる面は、まずそれが人には理解できない言葉であることが挙げられる。それは、異言である限りにおいて、聖霊が語らせたもの以外ではあり得ない。そして、神は異言を異言のまま、すなわち、それを語る人には理解できないままにしておこうとされるのである。そこで、それを解き明かすのもまた聖霊であり、聖霊は、一人に異言を、もう一人にその解き明かしを与えられるのである。仮に、異言を語ったその人がまた解き明かしをも与えられたとしても、それは同時ではない。それにより、それを聞く者たちは、まさにその場に主が臨在して、語っておられるという確信を持つことになる。
 異言が預言と異なるもう一つの点は、それが神に向けて語られるところである。しかし、教会の中で語られる異言は、会衆に向けて語られるのであり、それゆえに通訳が必要となるのである。しかし、それは文字通りの通訳ではなく、解き明かしであり、解釈なのである。
 それでは、どのようにしたら会衆のための異言を語ることができるのか。まず、聖霊のバプテスマを主イエスから求める必要がある。聖書によれば、神は求める者に聖霊を下さらないはずがないから、やがてそれが与えられる。それは、あなたがカリスマ的な集会に出席する機会を与えられることかも知れないし、また私のように自分の部屋の中で静かに受けることかもしれない。いずれにしても、そのようにして、あなたは神に向かって異言を語るようになる。そして、そのあとは、ビル・サブリツキーは言う次のことに従えばよい。すなわち、「もし主があなたに霊によって働くようにと願っていると信じているならば、だれにも聞かれないように霊によって静かに祈るようにとお勧めします。すると機会がやがてやって来て、それが神様からのものだと分かりますから、異言でメッセージを語ればよいのです。ここでも、あなたがこの賜物を成長させるために助けてくれる小さな、愛に満たされたグループの中で始めるのが良いでしょう。最初はつまりながら異言でいくつかの音節だけかもしれませんが、しかし、それが始まりです。この分野において大きな成果を見たいならば、霊の賜物を用いるように励ますことは絶対に必要です。周りの人々の愛と配慮が、信仰と愛の花を美しく咲かせます。」

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