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2009/03/26

第12章 預言

 「主はいつも言葉を与えたいと願っておられます」とビル・サブリツキーは言う。そして、その目的は、教会の徳を高めるためであり、そのことを神は、私たちの口から出る言葉によって実現されるのである。
 信仰者は、毎聖日のメッセージや日々のデボーションのときに触れる聖書の言葉により、人生における具体的な指針を与えられる。しかし、預言においては、教会に属する特定の兄弟姉妹の口に神が授けられる具体的な言葉が特定の兄弟姉妹の人生(時には特定のグループや教会全体)に対して、慰めと励ましを与えるのである。
 それでは、どのようにすれば預言ができるのだろうか。ビル・サブリツキーによれば、「私たちが心と思いを神様に開けば、預言の賜物を用いることができる」のであり、「すべての聖霊に満たされた信者は、預言の賜物を持つべき」ということである。それゆえ、預言する者は、信仰の確信を持って、「とにかく始めることが大切」であり、「思いの中に言葉が来れば、それを話してください。短い言葉かもしれませんが、信仰を持って踏み出して話して下さい。全部のメッセージをもらうまで待たないでください。あなたに語られたと信じたことを話し、そして止めて下さい。それ以上言うことはないかも知れませんし、また、他の人が預言の残りを加えるかも知れません」と彼は言う。そしてまた、語られた預言は、第三者により吟味されることが必要なのである。それには、そのようなことが実践されているグループに加わるということが必要であり、霊的な事柄の習得は、そのような現場における実践を通してしか与えられないのである。
 それでは、オーソドックスな信仰の教会に属する私のような信徒は、どうすればよいのか。それに関して、私はこう考える。一言で言うと、オーソドックスな範囲で、最大限にカリスマチックなことを行うのである。そういうと、教会の中で何か異端児的な存在になることを推奨しているように思うかも知れないが、決してそんなつもりはない。むしろそれは、教会からは歓迎されるはずだからである。しかし、それはあくまでカリスマ的であり、中途半端なものではない。その方法を次に述べよう。
 まず、私たちは、自分の信仰をもう一度問い直す必要がある。自分の所属する教会の信仰がカリスマ信仰と相対立するということをである。実際、カリスマ的でない信仰などというものは、ほとんど存在しない。私たちは、キリストの受肉と復活を信じているのだから。たとえ千歩譲って、キリストの受肉と復活さえ文字通りに信じていない教派があったとしても、そのような教派においても、それを文字通りに信じることを告白する人を慈しむことはあれ、邪険に扱うことはしないであろう。そこで私たちは、教会において公衆の面前で、み言葉により預言することができるのである。それは、なんとカリスマ的なことだろうか。聖書のみ言葉には、頑なな人の心をさえ改心させる力があるのだから、まして癒しや奇跡を行う力がないであろうか。だから、私たちは神に、兄弟姉妹を力づけ、励まし、癒し、立ち上がらせることのできるみ言葉を与えてくださいと願い求めるべきである。そして、そのみ言葉が与えられることと、それが天の神から来たことの確信と、それを語ることのできる機会が与えられること、そして、そのみ言葉により奇跡が起こることを願い求めよう。そうすればそれがかなえられるに違いない。
 実際これで、カリスマ的な行動としては、十分過ぎるほどであるが、さらに少しインパクトを与えたいと思う方は、次のようにすることもできる。すなわち、聖書のみ言葉にこだわらない自由な預言の言葉を神に願い求め、そして、それを語るのである。ただし、語るときには、その言葉に関連する聖書のみ言葉を最初に語り、次にその与えられた預言の言葉を、自分の願いとして、祈りの中で語るのである。そうすれば、それを止めさせようとする人はいないだろう。そして、兄弟姉妹は、あなたのことを少し幼稚な信仰を持った人のように見るかもしれないが、それ以上には見ないに違いない。しかし、その言葉が成就するとき、彼らに真実が啓示されることになる。それと共に、神の大いなる愛が教会に注がれることだろう。しかし、さらにインパクトを求める人は、少し危険性はあるが、あえて次のようにすることもできるかもしれない。つまり、語る前にこのように言うことである。「神が、このように言っておられるように感じます」と。それから自分に与えられた預言の言葉を語れば、それが強制ではなく、あなたの感触であることになり、さらにあなたにとっては、それが真実の告白となるだろう。

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