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2009/03/25

サクラダ・ファミリアの鉛筆

Pencil バルセロナでサクラダ・ファミリアを見学した。これは、着工後120年以上を経て、現在もまだ建築中の大聖堂である。ここのショップの売り上げも建設に貢献するらしいが、見学していて、あの物語を思い出した。
 ある人が大聖堂の建設現場を視察したとき、そこで働く人たちに聞いてみた。「あなたは、どんな仕事をしているのですか」。すると、「私は、一日中レンガを積んでいるんです」と答えた。またある人に、「あなたは、何をしているのですか」と聞くと彼は言った、「私は、壁を塗っているだけです」と答えた。視察も終わりに近づき、日も傾きかけたとき、そこここに落ちている小さなガラスの破片をほうきで掃いている年配の女性がいた。彼女にも聞いてみた、「あなたは、何をしているのですか」。すると、その女性は、遥かな高い天井を見上げ、手にしていたほうきに寄りかかりながらこう言った、「見て分からないのかい。この大聖堂を建てているのさ」と。

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カタツムリの煮物

Dvc00001 マドリッドでバルに入った。言葉が通じないので、店の入り口に立てかけてあった看板を抱えて来て、その写真を指さして「これ、これ」と言って注文したのがこの「カタツムリの煮物」。おじさんの仕草を見て、楊子で身をほじくり出して食べてみると、ちょっと苦くて、見た目も味も歯ごたえも小さいサザエかベイ貝のようだった。良く煮てあるはずなのに、食べようとすると殻の中深く逃げ込んでしまって出てこないやつもいる。そのうちにこつを習得し、調子良く食べていたら、ツノのあるやつに出くわした。そこで、ああ、やっぱりこれカタツムリだったんだな、と思ったら、お腹に入ったやつみんなにもツノが生えてきたように感じた。

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第11章 奇跡

 奇跡を行う賜物について、ビル・サブリツキーは、ここでは、実にあっさりと書いている。「神様は時間や状況に制限されていません。自然の世界とは反対に、霊の世界においては、もし私たちが心から信じ、その世界で働くならば奇跡は私たちの手の届く範囲にあるのです。」彼は、奇跡を大したことではないとは思っていない。しかし、「もし私たちが神様と正しい関係を保ち、イエス様が私たちを愛されたように、私たちも互いに愛し合うようにとの命令に従っていれば、私たちを通して神様の恵みが働く、強い基礎を持っていると信じています」と彼は言う。奇跡は、神を信じ、その命令を守る者たちにとっては、もはや不可能なことでないばかりか、むしろすでに日常的なことなのである。
 神様は、高い目的を持っておられ、私たちの人生は、そのために捧げ尽くされねばならない、と考える人がいる。そしてそれは、ある意味では真理である。しかし、その場合の難点は、その神の高い目的が彼に隠されていることである。しかし、ビル・サブリツキーは、その高い神の目的が、私たちを癒し、あらゆる意味で祝福することだと言う。もしそうなら、私たちの人生は180度違ったものになるだろう。そのとき、私たちの人生の不可解は霧のように消え失せ、太陽の光が降り注ぎ、私たちの顔を照らし、輝かすであろう。たとえそれが、オーソドックスなパラダイムにおいて真理ではなくとも関係ない。というのは、ビル・サブリツキーにとってこの世界は、そういう構造をしているのである。そしてそれは、それゆえ奇妙なことに、実は私たちにとっても、また真理となり得ることなのである。もし私たちがそのことを信じる決心をし、みことばによりその中に生きることを日々追求するなら、それが私たちの人生に発現し、私たちの現実となるのであり、そしてそのときこそ奇跡が日常的となるのである。

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第10章 いやしの賜物

 いやしは、一つの奇跡であり、自然法則を超越したものである。しかし聖書には、いやしが日常的に起こるかのように記されている。そして、今日でも実際にいやしを行う人々がいる。しかしそのような人たちも、祈ってもいやされないとき、往々にして、「なぜだか分かりません、とにかく他の方法でやってみましょう。それでもだめなら、誰か他の人に祈ってもらって下さい。あるいは、医者にかかることが神の御心かも知れません」と言うことが多い。
 しかし、ビル・サブリツキーは言う、「私が祈った全ての人や按手した全ての人には、すぐにいやしが始まると信じています。いやしがその前に始まっていなければ、その時から始まります。例外はありません。病人に手を置き、いやしを信じることは聖書的ないやしの方法です。そして私はいやしはすぐに始まると信じています」と。彼にとって、いやしに例外はない。もし祈ってもいやされない人がいれば、それは、その人が何か問題を持っているのであり、彼は、それを霊的な目で究明することにとりかかり、その結果、ついにいやしが起こるのである。つまり、ビル・サブリツキーにとっては、いやしはそれ自体、単独の目的として存在するのではない。むしろ、すべては、悪の勢力を、キリストの十字架の勝利によって打ち砕き、神の栄光を現すためなのである。彼は言う、「いやしのために祈る時、私は聖霊が私に力を下さるのを感じるまで主を待ち望みます。これは普通は油注ぎの前に静め、全ての思いを神様に集中します。心から信じ、神様の約束を思い出し、すべての苦い心、赦さない心、拒絶感、恐れを捨てるように勧めた後、その人に神様の霊が働いてくださることを信じることができます。すぐに身体にいやしが現れなくても、病人は神様が触れて下さったことを信じ、いやしのために神様を賛美し始めなければなりません」と。
 これは、もう単に信じるというよりも、「ばかになる」レベルではないだろうか。神のために自分を愚か者にすることこそが、彼ビル・サブリツキーにとっての信仰の業なのである。ナナフシという昆虫がいる。この虫は、自分に催眠術をかけるという。すると、彼の体の色が変わり始める。ちょうど彼が留まっている枝の色に変色し、彼はまさに一本の枝に変身するのである。ちょうどそのように、ビル・サブリツキーが自分に催眠術をかけ、自らをその中に埋没させ、彼にとって、みことば以外にはこの世界に存在しないほど、神の言葉が現実となるに至り、そこにすばらしいことが起こり始めるのである。天から彼の上に聖霊の力が下り、彼の感覚がそれを感じ、そこに神の奇跡の力が働き、ついに病がいやされるに至るのである。

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