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2009/03/10

第8章 知識の言葉

 これは、ある人の状況について、神から直接に与えられる、超自然的な知識であり、それが非常に具体的であることから、それは、すべてをご存知の神が、そこに集う人たちのために、ある特別の配慮をもって、そこにご臨在されるということの証拠となり、人々に驚異と深い慰めをもたらすものである。
 しかし、全能の神ともあろうお方が、なにゆえに、そのような細々とした具体的な事柄に関わられるのだろうか。たぶんこれが、この種の事柄に対する、一般の人々の反応だろう。私もそのように思っていた。しかし、ビル・サブリツキーは言う、「神様の愛は非常に広く、集会に出席しているときだけでなく、私たちの全ての問題に関心を持っておられます。そしてそのことを私が理解し始めて以来、多くの人々がいやされるのを見てきました。もし今あなたが家族のことについて心配しているなら、きっと神様は、あなたがこれを読んでいる間もあなたの家族を助けておられることでしょう。神様は時間と空間に制限されてはいません」と。
 もし、ビル・サブリツキーが言っていることが本当だとしたら、私たちは、神様に対するいままでの考え方を変えなければならないだろう。つまり、神は全宇宙を創造し、そこに君臨し、歴史を動かし、民族を御心のままに支配するお方なのだが、一方で、私たちの日常生活の細々としたことがらにも大いに関心を持っておられ、私たちが幸福で平安な生活を送ることを心から願っておられるということである。そして、そのために、聖霊の賜物を願い求め、それを働かせたいと願う者を用いて、ご自身の思いを打ち明けることにより、人々を訓戒し、力づけ、ご自身に従う正しい道を教えようとされるのだと。この知識の言葉という賜物は、私も欲しいと思っていた。それは、人々に神の臨在を強く印象づけることができるものであるから。しかし、それは私には、まだ与えられていないように思える。
 最近、初めて行った街を1時間半ほど、自由に歩き回る機会があった。商店街に、たくさんの人が集まっていた。その群衆の中を歩いていたとき、神から何か語られたように思った。「あなたは、これらの人々に遣わされてはいない。」私は、はっとしたが、「それは、いままでもそうだった」と思った。しかし、もし私が、ある人々のところへ遣わされるのなら。そのときは、神は私に語られるだろう。それらの人々のこころにある思いについて。賜物は常に、私が人々の間で働きを成すためにある。それは、教会とは限らないのだが、賜物が与えられるのは、それを用いるためであり、私がそれを用いるのは、常にある人々に対してなのであり、そのとき私は、その人々のところに遣わされているのである。その自覚を持たなければならない。そして、賜物を求めるというのは、神にそのような召命を与えてくださいと願うことなのである。

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