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2009/03/04

第4章 聖霊の賜物を受ける

 ビル・サブリツキーは、聖霊の賜物を受ける具体的な方法として、「按手」を揚げる。そして、ローマ1:11~12や第二テモテ1:6を引いて、これが聖書的な方法だと言うのである。
 もしそうなら、聖霊の賜物を受けるのは、ある人々にとっては、簡単なことであり得る。というのは、しかるべき人に頼んで、按手して祈ってもらえば良いのである。しかし同時に、ある人々にとっては、つまりそのように按手して祈ってくれるような、賜物を持っている人がいない場合には、その人にとっては、この状況は、一つの困難とも言えるのである。私は、一般にリベラルと言われている教派で育ったので、教会の中には私のために按手してくれる人などいなかったし、そもそも教会にもそのような習慣はなかった。しかし、神は生きておられ、求めていた私は、そのような状況の中においても、思いがけない友を通じて、外部の集会に導かれ、そこで按手を受けることができた。
 そのとき、私に預言の賜物が与えられていると言われたが、私にはそれが理解できなかった。そして、それから10年以上経った今においても、まだその賜物を用いて働くという段階には達していない。私の所属する教会においては、公式に預言を行うことは許されていないことがその大きな理由である。しかし最近、自分の内に、その種の賜物が与えられているという感触だけは感じられるようになってきたように思う。たぶん、環境さえ整えば、その与えられた賜物が再び目を吹き、実を結ぶようになるのだろう。このように、聖霊の賜物というものは、実に不思議なもので、それを受けることは、ある意味で簡単なのであるが、ただ受けただけでは、それは役に立たない。聖霊の助けによって、その賜物を用いる術を身に付ける必要があるのである。そしてここで、大切なことは、聖霊の賜物というものは、神がそれを求める人に分け与えられるのであるが、それは、すべて神の栄光を現すためであり、かつその場所は、教会の内部が主であるということである。
 そこで、聖霊の賜物が与えられることを望み、それを働かせることにより神の栄光を現したいのなら、その人は、カリスマ的な背景の教会に行くのが一番良いと思われる。しかし今日にあっては、たとえカリスマ派であっても、私の見たところでは、聖霊の賜物をこの本の著者のように、聖書に根ざしてきちんと教会の中に位置づけ、積極的に取り扱っている教会はきわめて少ないのが現実と思われる。そこで、聖書にある通り、「各自は、召されたときの状態に留まっているべき」に思われる。そして、生きておられる神が、この日本の霊的に飢え渇いている信徒たちの祈りに応えて、聖霊刷新のリバイバルを起こし、彼らに聖霊の賜物を与えて、ご自身の御業のために用いて下さることを待望するのである。

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