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2009/02/18

第16章 信仰の賜物

 信仰は、もちろん各人の意志であり、人の側の事柄である。しかし、それにも関わらず、フランシス女史は「信仰の賜物」と言う。つまり彼女は、この領域は、神と人との共同作業だというのである。これは、神のみこころと人の意志を明確に区別するアルミニアニズムとは異なり、その融合を前提とするカルビニズムに似ている。ただし、このように言うのは、神のみこころと人の意志の「神の側における融合」を想定して言うのであって、一般的になされるように、「人の側において」このことが考察される場合には、この逆となる。つまり、カルビニズムにおいては、人の自由意志も(それはもちろん完全に自由なものであるが)神の聖定の元に融合されているのであり、一方それとは反対に、アルミニアニズムにおいては、神の意志が人間の元で「予知」として融合しているのである。そして私自身は、どちらかというと後者の立場をとる教団の中にあって、明確に前者の立場をとっている信徒である。
 まあいずれにしても、信仰には、人の領域の要素と神の領域の要素があり、それが相隣合っているようなものなのだろう。そしてたぶん、この隣合っている二つの要素の境が神により動かされることがある。そのとき、人は霊的になったり、またはその反対に肉的になったりするようなのである。
 このことは、信仰者にとって、一つの驚きであるとともに、期待を遙かに越えた喜びである。それが彼に、神の耐えざる加護と主権を明確に印象づけるものとなるからであり、神もまさにそのことを意図しておられるのである。その感覚は、信仰者の内に生きて働き給う、全能者の臨在を感じさせ、彼の心に畏敬の念を呼び起こす。そして何よりもそれは、彼の信仰を、彼の意志や感覚、存在性を遙かに越えて、現実に実質的に飛翔させるのである。
 この信仰の賜物が来るとき、信仰者は神の人となる。それは、一時的に彼を神の力の中に入れる。それは、聖書に書いてある通りに、彼が信じるものを実際に受け取るためである。
 それでは、この信仰の賜物を受けるためには、どうすれば良いのだろうか。フランシス・ハンターはこう言う、「信仰の賜物はいつも働くとは限りません。また、これは祈って与えられるようなものでもありません。それはみこころのままに神様が私たちに下さるもので、特別な時と、特別な目的のためなのです」と。もしそうだとすれば、私たちは、信仰の賜物が与えられるように祈っても無駄であり、またその必要もないということである。私たちに必要なのは、むしろいやしの働きへの神からの召しなのである。
 それでは再び、このいやしの働きへの召しは、どのようにすれば得られるのだろうか。それは、備え、また待つことである。あなたに神の時が訪れ、神がこの働きへあなたを召して下さるまで。しかし、ハンター夫妻は、何もせずに待つようにとは言わない。返って信仰のゆえに踏み出しなさいという。そして、そうしないとそれはいつまでたっても与えられないだろう。それは、あなたが神に聞くための、そして神の時を知るための訓練でもあるのであり、そのような実践を通じて、あなたの信仰とあなたのまったき従順が神の前に整えられるためなのである。

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