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2009/02/17

神の言葉で生きる

『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』 マタイによる福音書 4章 4節

 もちろん私たちは、聖書の権威を尊重する。それが神の口から出た言葉であり、私たちの人生を変革する力を持っていることを信じて、毎週教会に通い、機会を捉えて伝道にも努力する。それが主イエスが言われた「神の言葉で生きる」ということだと理解している。
 しかし、そう考えながらも、一抹の不安のようなものも覚える。というのは、そのように考え、そのように生きている自分自身が、み言葉にどの程度依存しているのかと言うと、せいぜいのところ、日曜日の丸1日と毎日の早朝や深夜の数時間程度であり、それらの大切な日課も、ともすると日常の予期しない出来事や社会的な責任の前に、あるときは中止、またあるときは延期、あるいは棚上げを余儀なくされることがままあるのではないかと思い当たるからである。しかしまた、そのような状況は、私たちが現代を生きる上で、避けて通れない要素でもあり、ただ世の流れに抵抗しようとするだけでは、根本的な解決にはならないと思われる。それでは、いったい何がどうなれば良いのだろうか。
 一つの確信は、私たちは、もう一度、「神の言葉、聖書には、私たちの人生を変える力がある」ということを厳粛に受け止める必要があるということである。というのは、もしそれが本当ならば、私たちの毎日が、上述のように、一抹の不安をいだいたままの状態にいつまでも留まっていることは、あり得ないことだからである。それでは、どこが間違っているのだろうか。一言で言えば、私たちはまだ、「神の言葉で生きる」というところまで行っていなかったということであり、それゆえにあなたの人生は、変革されずに取り残されたままなのである。
 それでは「神の言葉で生きる」とは、どのようなことなのだろうか。まず第一に、聖書の言葉を常に必要とする状況に自分を置くことである。私たちは、聖書を日課として読むのでは、未だ十分ではない。「今日はここまで」というように、節度を保つ必要はない。「神の言葉で生きる」とは、文字通りそれを生きることである。次に、聖書に飢え乾くことである。いつも聖書をむさぼり読み、それを思いだし、口ずさみながら生きることであり、そのようにして、聖書の言葉があなたの肉に浸透するのである。第三に、聖書を暗記することである。それは、日曜学校の生徒のための課題なのではない。それは、まさにすべての信仰者のためのものなのであり、それにより、あなた自身が聖書のみことばそのものとあり、あなたの内にみことばが血のように巡るようになる。
 しかし、そのようになることは、ある意味で狂信的であり、善悪の区別がつかなくなってしまうのではないか。然り、その通りである。罪に陥る前のアダムには、善悪の区別がなかった。彼にとっては、すべてが善であり、悪を知らなかったのである。しかし、彼が罪に墜ちたとき、彼は善悪を知る者となったのであった。そこで、私たちが最初の浄福に立ち帰ろうと願うなら、それは、善悪の区別がつかない状態が目指されるのである。それでは、悪というものを知らない人が、罪の世において、いかにして悪を避けることができるのか。それこそが、「神のことばに生きる」ということの最初の目的なのであり、すべての霊的な事柄への扉なのである。

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