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2009/02/14

第15章 悪霊を追い出す

 「このタイトルは、大変興味深く、興奮させ、大胆で、魅力があり、行動的ですが、同時にとても危険なものです」とフランシス女史は言う。この霊の戦いの分野がいやしと異なるところは、それがある種の人格的な存在に対する積極的な攻撃のアクションを含むことだろう。しかしそれにも関わらずこの働きは、いやしと本質的には同じ働きなのである。つまり、病は根元的には悪魔から来るものであり、それに対してどのレベルの戦いが要求されているかにより、ミニストリーの内容が患部への回復命令ともなり、あるいは、その患部に棲み付くかまたはそこへ攻撃を仕掛けている霊的な存在への退去命令ともなり得るのである。
 悪魔の働きは、騙すこと、破壊すること、奪うこと、この3つであり、それらをそれぞれ啓示、刷新、恵みという神の働きに似せて行うという極悪なものであり、人はそれらに容易に騙されてしまうのである。それは、人を辱めることであり、それを通じて神ご自身に反逆することが目的なのである。それは、情状酌量の余地のないものであり、私たちは、聖霊に導かれた断固とした態度でこの悪しき人格に対応する必要がある。
 まず、悪霊と話をしてはならない。主イエスは、悪霊に話すことをお許しにならなかった。私たちが悪霊と会話するなら、その欺きに屈することになる。話をすること自体が敗北なのであり、私たちの成すべきことは、悪霊を主イエスの御名の権威によって縛り、追い出すことだけである。そして、悪しき力が去ると心と肉体にいやしがもたらされることになる。
 このように、いやしの働きは、本質的には、病を引き起こす悪霊との戦いに通じるのであり、いやしに関わる者は、これを避けて通ることはできない。そればかりではなく、主イエスに従おうとする者はみな、それを避けて通ることができない。信仰は、本質的には、空中の権を持つ存在、すなわち悪魔との戦いなのであり、それが神によって意図されたものなのである。もしそうでなければ、天地創造前にルシファーが神に反逆し、一部の天使たちが彼につき従ったときに、彼らはすべて滅ぼされていたであろう。そのとき彼らが存続を許されたのは、私たち信仰者が御国を相続する際に、彼らと戦い、主の御名と証しの言葉によって勝利を得ることがどうしても必要だからなのである。
 この奥義は、聖霊を受けた者にのみ真に啓示される。しかし、彼の心にはまた、アダム以来の罪が入り込んでいる。そのようにして、聖霊を受けた人は、自分の罪の心と聖霊の導きとの板挟みになっているのである。そして彼が、ただ聖霊にのみ聞き従うならば、彼は神の御心を行い、従順から従順へと進むことができる。しかし一方で、彼はまた、自分の内の罪の性質に働きかけるところの悪霊の誘惑に魅力を感じてしまうこともある。この誘惑は、非常に巧妙であり、それがまるで良いことのように見えることがある。しかし、それが何のためにということよりも、誰の栄光になるのかと考えてみたときに、その究極的な意図が明らかになってくる。
 これらのことが示しているのは、次のことである。つまり、神の力によるいやしというものが存在し、それが現代を生きる私たちにより実践されるということがもしあるとするなら、それは、とりもなおさず、次のことを示している。すなわち、私たちの信仰生活は、この世をつつがなく楽しく生きるためではなく、世のため人のために生きるためでもなく、また社会に貢献するためでもなく、ただ神の栄光を現すためなのであり、それはまた、空中の権を持つ人格的な悪の勢力との戦いによるのであり、そのような神話論的な表象の構造こそが霊的な現実であるということなのである。そして、さらにそのことは、私たち信仰者をして、自己の能力の向上や種々の知識の獲得、人格的な成長や品位の向上等を目指させるのではなく、返って神の前に自己を空しくして、ただ神の恵みと哀れみを願い求め、神にすべての栄光を帰すようにさせるのである。

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