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2009/02/06

第13章 いやされなかった場合は

 知っている限りのいやしの方法を行ってもいやされない場合、どうすれば良いのだろう。しかし、確かにすべての人がいやされるのではないようであり、いやしの集会が終わった後に、一群のいやされなかった人々がいつも取り残されることになる。フランシス女史は、ためらわずに、それらの人々に、こんどは、他の人に祈ってもらうように言う。また、自ら運営している一連のいやしに関する教育においても、自ら病を負いながらの講義を余儀なくされたこともあったという。
 これらのことは、何を意味するのだろうか。いやしは、結局偶然の産物でしかないのか。それとも、どこかが間違っているのか。あるいは、まだ未熟な部分があるのか。神の心に気まぐれがあるのか。フランシス女史は、私たちの未熟さを原因として揚げる。もし私たちが、神への従順において、生前の主イエスに近づくことができれば、いやしはより確実になってくるだろうと彼女は言う。
 しかし、この本を読んで、私が気付いたもっとも注目すべき、盲点とでも言えるようなことは、「同情は、いやしの敵である」ということである。彼女自身も、「同情は脳溢血のいやしにとって一番大きな敵だ」と言っているが、それは、その他一般のいやしについても真理だと思う。特に日本人は、哀れみと同情の区別がつかない民族のようだ。しかし、これら2つは、まったく異なった概念なのである。そしてその上、ここでそれらの違いを明確化する価値さえないものである。それらは、いやしを行う人には、いっさい関係がないほどになっていなければならないのだ。その理由は、次のことである。
 まず、哀れみは、神から発するものであり、私たちからは出ないということである。私たちが他の人を哀れもうとするとき、それはすでに同情以上のものではない。なぜなら、私たちには、何の力も知恵もないからである。次に、同情は、この世との妥協である。それは、現状を認め、ある意味でそれに同意することになる。そのときあなたは、悪魔の仕業に同意しているのである。神の思い、人となられたイエスの御思いは、悪魔の仕業への義憤以外のものではなかった。同情はあなたの心にもあってはならない。主イエスは、苦しみの後に死んで葬られたラザロを前に、涙を流された。それは、ラザロの苦しみをご自身の苦しみとされたからであり、泣く者と共に泣かれたのである。私たちも主イエスのように、泣く者と共に泣くことができる。しかしそれは、断じて同情なのではない。
 あるいやしの集会で、筋萎縮症でほぼ全身麻痺の人が2人に支えられて前に出てきた。フランシス女史は、その人に向かって「主イエスをほめよ!」と言った。彼は、もう少しで信仰を失うところだったが、そのとき神の奇跡の力が彼女から流れ出たのを感じた。彼は、見た目にはいやされたような変化は何もなかったが、彼女は、「彼はそう見えないかもしれないが、いやされているのです」と冷たく言った。そして、その言葉の通り、彼は12時間以内に完全にいやされたのであった。彼女の冷たさは、彼に対してではなく、悪魔の仕業に対してであり、いやしを行う者は、このことをしっかりと心に持っていなければならない。すなわち、病は神が与えられるものではなく、それは悪魔から来るのであり、あなたは、それに対して、徹底的に毅然とした態度で臨まなければならないのである。それのみが神に栄光を帰し、完全ないやしをもたらす秘訣なのである。

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