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2009/02/04

第12章 病人をいやす他の方法

 これまでに説明されたいくつかのいやしの形態は、どちらかと言うと、方法論というようよりは、心構えのようなものであった。つまり、こうやればいやされるという確実な方法などはなく、ただ神がご自身の栄光を現すために私たちを通じていやしを行われるのであって、その限りにおいて、神は主権をもって自由な方法で働かれるのである。しかしそれでも私たちは、いやしを神に期待し、それを自ら能動的に行使する方法論とでも言うものに思い当たるのである。
 それは、まず、いやしが神の御心であり、そうすることが神の喜びであるという事実である。これは、神が人をご自身の形に創造され、彼らを祝福されたことに発する。そしてまた、罪に沈んでいた人の救いのために、ご自身の一人子を十字架に架けられるほどに世を愛されたことによる。それにより、私たちは、いやしが神の御心であり、喜びであることを知り、確信を持って神にいやしを願い求めることができるのである。
 さらに神は、ご自身の栄光を現されるのに、特定の人を用いられる。アブラハムを用い、モーセを用い、サムエルをダビデを、ソロモンをエリヤを、パウロを用いられた神は、今この時代においては、聖霊に満たされた信徒を用いて、ご自身の栄光を現されるのである。この確信は重要である。信仰者が出て行くとき、神がそれを見守られるだけでなく、彼の中にあって、神が働かれ、御業を行われ、そこで彼に勝利を給わり、それによりご自身の栄光を現されるのである。
 ここに一つのパターンが存在する。すなわち、信仰者が祈りの中で神の御心を知る。神は彼の心を動かして、彼は働きのために出て行く。神は、彼と共に行かれて、彼の中にあって超自然的な御業により彼を助け、彼に勝利を給わる。彼は、その勝利を神に帰し、それにより神の栄光が現される。これは、神と人の絶妙なコンビネーションであり、父と子の権威のバランスである。このバランスが崩れるとき、奇跡は起こらない。しかし、このバランスが絶妙に保たれるとき、そこに神の奇跡の御業が現れる。かくしていやしは起こるのである。
 しかし、このバランスは、寸分の誤差も許さないようなものではない。むしろそれは、かなりの許容誤差を含んでいるのである。そこで、あるときには、人の権威が多分に強調されたように見えることがある。あたかも神が人に、本来ご自身が持っておられるはずの権威を譲渡されたかのように見えることがある。また反対に、神の絶対の主権の前に、人の存在が無きに等しいかのように見えることがある。それは、また神の絶妙なる配剤なのであって、神の永遠の愛の結実でもあるのである。私たちは、これらの真理を究めることはできない。実にフランシス女史でさえ、それを完全に理解しているとは思えない。これは、ただ神だけが知っておられ、ご自身の裁量で、天地創造の昔から決めておられることなのである。

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第11章 祈りの布を用いてのいやし

 神の力が、ある1枚の布等、特定の物の中に宿ると言うのは、どこか異端的、あるいは御利益信仰的に思われるところがある。しかし、使徒行伝19:11~12には確かに、パウロが身に着けた手拭いや前掛けをはずして病人にあてると病がいやされたことが記されている。
 私たちは、このことにより、今までの観念的な信仰概念を変革する必要があるのかも知れない。それは、神が自分という1人の罪人をも救い給うたという事実を通して、自分自身をもう一度、単なる被造物と認識し、そこに現された救いの奇跡に驚嘆し、栄光をただ父なる神に帰することに通じるように思える。
 そのようにして、救いは私という一被造物の中に宿り、信仰の業は、私という一人の人間を通して働くのである。これがすなわち、インマヌエル(神ともにいます)という信仰なのであり、そのような信仰に立つ者だけが、出て行って神と共に働き、ダビデのように敵の門を勝ち取ることができるのである。
 そのような信仰から、フランシス女史のチームは、小さなポリエステルの布に手を置き、いやしが必要な人に郵便で送り出す。その布は、ときには何日間もかけて遠い国まで届き、受け取った人がそれに触れた瞬間にいやされるということが起こるのである。

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この世の誘惑

ネヘミヤ記 第6章
 城壁再建の工事が完成に近づき、そこに崩れたところが一つとして残らず、あとは城門に扉を付けるだけだということを妨害者たちが聞いたとき、彼らはネヘミヤに使者を送り、彼を誘い出して危害を加えようと企んだ。ネヘミヤはそれを断り、彼らの誘惑に乗ることはしなかった。神に従う者、神の事業に携わる者は、この世の誘惑に乗ってはならない。それはまず、対等の接触を要求してくる。しかし、元々神の国とこの世界の間に対等の接触などないのである。もしあるとすれば、それはただ神からの一方的な接近なのであり、それはただ一度、イエス・ キリストにおいて実現したのであった。そこで、神に導かれた事業がいかに順調に行っていても、世からの誘惑には、極力注意する必要がある。それはあり得るようなものではない。
 しかし、ネヘミヤの心には、この妨害者たちとの対立が望ましいものとは写っていなかっただろう。戦いは、いつの日にもここちよいものではない。できればそれを避けて通りたい、忘れていたいと誰しも思う。工事を行う民たちの心は、緊張を続けてきた。いつまでこの切迫した状態は続くのか。できれば、この今の優勢な状態のときに彼らと和解できれば、今後において有利な展開になるのではないか。そう思われたかも知れない。しかしそのような道はない。神の事業に世と妥協できる部分はない。ネヘミヤは、彼らの誘惑に屈しなかった。
 そして、果たしてその判断が正しかったことが明らかになる。妨害者たちは、預言者たちをも買収して、ネヘミヤを騙し、脅迫しようとしたのであった。彼らは、ユダの貴族たちや成り上がり者たち、世の生活に魅力を感じる者たちを誘惑して契約を結び、彼らから情報を得ると共に、すきがあればネヘミヤたちを誘惑し攻撃を加えようとしていたのであった。

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