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2009/02/03

第10章 とりなしの祈りによるいやし

 ここに書かれていることは、高すぎて私には容易に理解できないことのように思われる。とりなしの祈りとは、そのように高いものなのであり、私にとっては未だ未知の領域にある。「神様は遍在されるお方です。神様が同時にどこにでもいることができるとは、何とすばらしく、興味深いことでしょう」とフランシス・ハンター女史は言う。それは、神様が私たちのとりなしの祈りに応えてくださるためなのであり、私たちの祈りに対して、神様ご自身が働いてくださるのである。
 イエス様は、かつて弟子たちの足を洗い、ご自身が仕えるために来られたことを示し、私たちにも仕えることを教えられた。そのように私たちには、互いに仕え合うことが求められている。しかし、神様と親しくなった者たちは、神様との関係で、控えめに言えば、ある意味で仕え合う間柄となるのである。
 私たちは、神の栄光を現すためにこの世界で生活し、働き、神様のために様々なことを行い、神様の栄光をこの世界に現そうとする。しかし、とりなしの祈りにおいては、私たちの祈りに応えて、神様ご自身が働かれるのである。なんと畏れ多いことだろうか。しかし、そのこと自身が、再び神様の栄光のためなのである。ここにとりなしの祈りにおける一つの鍵がある。すなわち、私たちのとりなしの祈りを神様に聞いていただこうと思うなら、私たちは、ただ神様の栄光のために祈らなければならないということである。「私が病人に按手する時、やされようと、いやされまいと、私には何も失う物はないのです。なぜなら聖書は自分自身に死ぬようにと言っていますから。もし、自分自身に死んだなら、評判は気にならなくなります。」とフランシス女史は言う。そして彼女は、病人のために祈った後、「感謝します」と言う。それは、神が祈りに応えてくださったことの確信なのである。
ある日、彼女が瀕死の病人のために祈り終えたとき、神は彼女に時計を見るように印象を与えられた。彼女が時計を「11時37分です」と読み取ると、その同じ時刻に、遠く離れた病室に、イエス様が入って来られ、その病気の人はベッドから立ち上がったのであった。

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