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2009/02/01

第8章 いやしの条件

 私が神のいやしの力を信じ、それを実践し始めたころ、いやしはわりと日常的に起こっていた。しかし、それから信仰的にも成長し、神により従順になったように思える最近では、なぜかいやしがそれほど多く起こらなくなってしまったように思える。神さまはきっと、私の信仰を育て励ますために、あのときいやしを行われたのであり、今は、私の忍耐と神への従順を増すために、いやしを控えておられるのだと思える。そして、これはいやしに関心を持つ多くの信仰者の感想でもあると思う。それでは、信仰的に成長しても、いや成長すればするほどいやしが日常的になるためには、すなわちハンター夫妻のようになるためには、どうすれば良いのだろうか。それにはたぶん、もう一段成長することが必要なのだろう。フランシス・ハンター女史もそのように書いている。
 「神さまは、ご自分のしたいことを、したい時に、誰に対してでも正確に行うことができますが、それでも私たちが学ばなければならない基本的な教えがあり、その中の一つは、いやしには条件があるということです」とフランシス・ハンター女史は言う。つまり、私がまだ信仰的に幼かったときには、神さまはご自身の権威により、私と共に日常的にいやしを行われたのだが、一段成長した私に対しては、今度はいやしを成すために条件を付けていらっしゃるというのである。彼女は、このいやしの条件として、「神を恐れ、悪から離れること」、「神を信頼し、より頼むこと」、「心を尽くして神に聞くこと」の3点を揚げる。この3つの条件が整うならば、その人の周りには、再びいやしが伴うようになるというわけである。「なんだ、それでは普通の福音信仰と同じではないか」と思う方もいらっしゃるかもしれない。ある意味では同じだが、ある意味では異なる。それは、神のすべての祝福を期待するために、聖書のみことばを実践することなのである。
 私は、これまで聖書のみことばを暗記することは、あまりしたことがない。その主旨を汲み取れば十分と思ってきた。字面を追うよりも、聖書の主旨を理解し、生活のそれぞれの局面で聖書的に考え、行動する中で神に従うことが信仰であると信じて疑わなかった。しかし、世の中には、聖書にびっしりと線を引き、それを文字通り暗記している人がいる。私は、それは即物的な信仰であり、ある意味でおろかであり、また危険でもあると思っていた。しかし、たぶんそうではないのだろう。神に従うというのは、文字通り、みことばに従うことであり、それを暗記し、口ずさみながら歩むことなのだろう。そのとき、みことばは私の食べ物となり、血肉となり、さらに悪の力を打ち破る剣ともなるのである。
 そうだ、私はこれまで、みことばの文脈を理解することにやっきになってきた。しかし、それだけでは力にならないことが分かった。力になるのは、私の手に握られたみことばの剣なのである。その剣を持つことができれば、病を起こしている悪の力を打ち破ることができる。そのようにして、私の周りに、もう一度いやしが日常的に起こるようになると信じるのである。

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