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2009/01/31

第7章 見る物を得る事ができる

 これは、霊的な世界の法則である。だから私たちが望んでいるものを得るためには、まず霊的な目でそれを見る必要がある。そして、そのことができさえすれば、あとはそれが実現するのを待つだけだとフランシス女史は言う。有名なチョー・ヨンギ牧師も、著書「第四次元」でそのことを強調している。しかし人は、このこと、すなわち霊の目で見ることが苦手である。そこで、それが霊の目で見えるようになるまで、根気強く自分に言い聞かせたり、実際にそれを象徴するような行動をとる必要がある。そのようにして、意識の中の戦いが行われる。そしてついに霊的な目でそれを見られるようになれば、もうそれを手に入れたと同じなのだという。このような考えに対して、私たちは何か危険なものを感じなくもない。それは、私たちを見知らぬ世界へ連れて行くように思われるから。今はそれらは、私たちの目に隠されている。しかし、やがてそれが私たちに対して開かれるときが来るとフランシス女史は言う。それは、天から啓示されるものであり、それが来るとき、私たちの目が開かれて、聖書の言葉が輝きを発し、そこに書いてあることが真に私たちに理解され、主イエスとの失われていた関係が回復されるのである。
 願い事のこれら超自然的な実現方法の上に、いやしの場合には、さらに特別な力の源泉とでも言えるものが存在する。それは、主イエスの十字架である。「ある人々はなぜ必要ないやしを受けることができないと思いますか。それはイエス様の上に、自分の病を見ることができないからです。私たちの霊の目が開かれ、私たちのいやしがイエス様に属していることを見た日から、必要なあらゆるいやしを受けるようになると信じています。イエス様の中に私たちの病を見るとき、いやしは私たちの生活に現れるのです」とフランシス女史は言う。彼女によれば、十字架の上のイエス様の体には、数えきれないあらゆる種類の病があり、とても人間とは見えない姿であったという。これは、私が主イエスに対して持っていたイメージと大きく異なっていた。私の仰ぐ十字架上のイエス様は、栄光に輝く、勝利者としての主イエスであった。しかし、それは聖書の記述とは異なっていた。聖書には、「多くの者があなたを見て驚いたように、その顔だちは、そこなわれて人のようではなく、その姿も人の子らとは違っていた」と書かれている。それを文字通りイメージすると、イエス様の姿は非常に醜いものであったことになる。しかし、私はそのようなイエス様を思い描くことを避けていた。まして自分の病をイエス様に押し付けるようなことは、神を冒涜することのように思っていた。そしてそれがイエス様に従うことだと思っていた。しかし、もしかするとそれゆえに私にいやしが現れなかったのかもしれない。それゆえ、病は私に残り、いやしは現れる道を閉ざされていたのかもしれない。きっとそうなのだろう。あるときバスを待っているときに、自分の病をイエス様の上に置いてみた。「イエス様、私の病を負ってください。いや、あなたはすでに私の病を負われたのですね。あなたの打ち傷により、私はいやされました」と祈った。すると、今まで味わったことのないいやしの香りが主イエスのもとから私の体に流れ込んでくるのを感じた。「これがイエスを主とすることだったのか」と思った。私たちは、いまもう一度、主イエスを信じるとはどういうことか、その恵みを受け取るとはどういうことなのかを、思いなおす必要があるのかもしれない。これは、あの「沈黙」という小説における、躓きの受容とはまったく関係のない、主の十字架の前に真にひざまずくことなのである。

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