« 2009年1月29日 | トップページ | 2009年1月31日 »

2009/01/30

第6章 山に向かって語れ

 「ペンテコステ以後、弟子たちが病人のために祈ったという記録は、どこにも見あたらない」という。確かにそうなのかもしれない。そしてフランシス女史は、「山に向かって語れ」と言う。「山」とは「病を含むあらゆる困難」のことであり、「語る」とは「命じる」ことである。そして、これが病人をいやす一つの方法なのである。しかしそこに誰をも煩わせるところの一つの条件がある。それは、「信じて疑わずに」ということであり、文字通り信じて命じるなら、それが起こるというのである。
 しかし、ということは、それが起こらないならば、その命令した人は、十分な信仰を持っていなかったということになってしまう。つまり、それは両刃の剣なのであり、命じたことが実現しないなら、それがその人の不信仰を暴露することになると共に、もう一度命じようものなら、それが再び、最初に命じたことの無効性を自ら認めることにさえなってしまうのである。ここに確かにこの立場の困難がある。しかしフランシス女史は、そんなことにはおかまいなしに、「いやされるまで、何度も行いなさい」と言う。
 「いやしはすでにそこにある」と彼女は言う。ちょうど救いが常にそこにあったように。そして、私たちに必要なのは、ただそれを受け取ることだけなのであり、それゆえそのために祈る必要はないのである。それでは、どうすればいやしを受け取れるのか。鍵は「疑わずに信じること」にあるが、私たちはこのことに非常な困難を感じる。それは、私たちの日常生活とあまりにもかけ離れているから。私たちは、目で見、耳で聞き、口に出すことに大きく影響される生き方を身につけてしまった。その結果私たちにとって、「疑わずに信じる」ということは、もっとも苦手なことになってしまったのである。しかしそのような弁解もフランシス女史のような信じる人には、まったく通じない。彼女は言う、「それなら、あなたの信じたいことを口に出して告白し、宣言し、あなたの耳でそれを聞き、心にそのイメージを焼き付けなさい」と。そのようにして、それを私たちの信仰として獲得することができるというのである。何度も命じたり、何通りもの方法でやってみるのは、実はそのためなのであり、自分の不信仰を暴露するためではなかったのである。
 そのようにして意識の中の戦いを雄々しく戦い、とにもかくにも私が、いままで持ったことのない、ある天的な確信のようなものを獲得するとき、私は少なくともきっと、神との関係の新しい段階に進むことができるのではないだろうか。それは確かに、これまで私が神に捧げてきた何ものにもまして、高価な代償と言えるだろうから。しかし、ここにもう一つの良いことがある。そしてこれは、私に何の代償も求めることがないほど気高くすばらしいものだ。それは、「いやしは、神のみこころだ」ということである。
 私たちはもしかしたら、いまもう一度考え直す余地があるのかもしれない。いままで無理だと信じていたこと、無駄で根拠のないことだと信じてしまっていたこと、あきらめていたこと、思いこまされていたかも知れないことを。こと聖書信仰においては、すなわち、私たちの人生においては、確かめることよりも、みことばを疑わずに信じることこそが本質だということを。それができたなら、私たちと神との関係が回復され、失われていたあるすばらしいものが取り返されるということを。もし、それが本当のことだとしたら・・・。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2009年1月29日 | トップページ | 2009年1月31日 »