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2009/01/28

第3章 手を置くこと

 神は、私たち信じる者たちを通して病のいやしを行われる。そして、その一つの方法は、「病人に手を置く」ことである。私たちが、聖書に書かれていること、例えばマルコの福音書16章18節の御言葉を信じて、病人に手を置くとき、その人はいやされるとフランシス女史は言う。
 ここに、カリスマ派に対する福音派の一つのジレンマが浮かび上がる。つまり、聖書のすべてを信じられないことである。もし「病人に手を置けばいやされる」という聖書の言葉を文字通りに信じられないなら、いっそのことそれを聖書から削除してしまったらどうだろう。しかし彼らがそれをしないのは、そのように削除すべき言葉をどのように限定すべきか分からないので、一度手をつけたら大変なことになることを知っているためか、または現状の聖書が原典にきわめて近いと不承不承にも信じるからである。しかし、そのいずれにしても、それではなぜ信じないのかと問われてしまうことになる。この点、リベラル派は徹底している。つまり彼らは、聖書の言葉を大胆に切り詰めてしまうか、独自の自由な解釈を施す。そしてその根拠が、科学的な演繹や論理なのである。その場合、聖書の編集者は彼ら自身となる。つまり彼らは、自分が考え出した概念を自分で信じているのである。
 しかしカリスマ派は、聖書をそのまま信じる。しかし彼らとて、ある種の批判を免れない。それは、聖書自身が内包する矛盾である。それに対して彼らは、「ああ、そんなこともあるかもね」と言う。その態度は、福音派やリベラル派をいらいらさせる不真面目なものに思われる。しかし彼らの意図、すなわちフランシス女史の意図は、次のようなものだろう。すなわち、聖書のこちらに100本と書いてあり、あちらには200本と書いてある。そのどちらが正しいのかと聞かれれば、「たぶんどちらかが正しいのだ」と答える。それでは答えになっていないと詰問されると、「人間だから、間違うこともある」と答えるか、「あるいは、数え方や社会背景の違い、あるいは単位の違いかその類のものだろう」と答える。それでは、「病人に手を置けばいやされる」というのも、もしかしたら間違っているのかと問われれば、「それは違う」と答える。なぜかというと、ものの数え方、カウントが多少異なって記録されることがあったとしても、「病人に手を置いてもいやされない」ということが、「病人に手を置けばいやされる」と記されることは、あり得ないことだからだ。これは、良く考えればだれでも分かることではないか。しかし、聖書学者や牧師には、これが意外と分からない。聖書の字面を追っているからなのだろう。大切なのは、その精神の方なのに。
 つまり、フランシス女史の言いたいことは、こうなのだろう。「病人に手を置けばいやされる」ということは、聖書を読む限り本当のことである。たまには、神の都合により、いやされないことも、もしかしたらあるかも知れないが、原則として、大概、多くは、まあ大体は、「病人に手を置けばいやされる」ということは真実なのである。だから、私たちは、「病人に手を置けばいやされる」と信じて疑わないことが必要である。神がそれを聖書に記されたから。そしてそれは、私たちが聞いて信じるためなのであり、信じた私たちが病人に手を置いていやすためなのである。そして、信じなければ、この奇跡は起こらないのである。信じるとは、その他のことに目もくれないことである。乱暴な言い方をすれば、聖書のここに100本とあったら、そこを読むときは、他の箇所に200本と書いてあることなど考えないのである。昨日、ある人に手を置いて祈って、その人がいやされなくても、今日、この人に手を置くとき、必ずいやされると信じることなのである。それが聖書を信じることであり、神を信じることなのである。

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