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2009/01/19

城壁

ネヘミヤ記 第1章
 ペルシャの王アルタクセルクセス王の第20年に、エルサレムから何人かの人が、首都スサにやってきた。ネヘミヤが彼らにエルサレムの近況を尋ねると、彼らは答えた。「捕囚の生き残りで、この州に残っている人々は、大きな不幸の中にあって、恥辱を受けています。エルサレムの城壁は打ち破られ、城門は焼け落ちたままです。」これを聞いてネヘミヤは、思わず座り込んで泣き、幾日も嘆き、食を絶ち、天の神に苦悶の祈りをささげた。
 ああ、今日の教会が、まさにこのような状態だということを、私たちは知らなければならない。私たちには、教会すなわち神殿が与えられているのだが、その日常生活は、外から見たときには、神を知らない未信者とそれほど違わない。社会の中で地位も影響力もなく、一般の人々からは、変人か世捨て人のように見られ、影のように社会生活を送っている。私たちが会話を交わす人の中で、だれ一人私たちのようになりたいと思う者はなく、清貧に甘んじ、自分でもそれは、信仰者であるかぎり仕方のないことのように信じている。そのようなキリスト教会の現状は、まさにこのネヘミヤ記の冒頭に記された、ユダとエルサレムにおけるイスラエル民族の状況そのままではないだろうか。なぜ、そのようになっているのか。おおそれは、私たちが城壁を持たないからである。城壁とは、街を意味する。そして、私たちが街を持つとは、信仰者としての日常生活を持つということなのである。
 それでは、私たちは現在、日常生活を持っていないのか。持っていないと私は思う。例えば、早朝に起きて、まず神を賛美し、神の言葉聖書を読み、黙想し、神に心からの礼拝をささげてから一日を歩みだしている人がどれだけいることか。たとえそのような人であっても、一歩家を出ると、周りの諸々のことに心を奪われ、会社では、その日に自分のしなければならない仕事のために身を削って働き、その結果自分のすべてを使い尽くし、家に帰れば、家族との交わりのあとに残されたわずかな私的時間に、体と心を休め、明日に備えるのが精一杯なのではないだろうか。もしそうだとしたら、私たちは、このネヘミヤ記の冒頭における城壁を持たないユダとエルサレムの人々と同様ではないか。
 そこでまず私たちは、これではいけない、という意識から出発しなければならないと思う。本当は、私たちの生活のすべてが神への礼拝であり賛美でなければならないのだから。そうなったとき、初めて私たちは、日常生活を回復したと言えるのである。もし、私たち信仰者が自ら会社を持つことができたなら。また、私たち信仰者から政治家を多く出すことができたなら。そして極端には、一つの街全体がキリスト教化されることが実現したら。そのとき、私たちの生活のすべてが神への賛美と礼拝になるであろう。そして、これこそが私たちが目指すべき日常生活なのであり、それが神の国であり、終わりの日に実現することであり、さらに今の私たちの方向性なのである。たとえ、すぐにはそうならないことが分かっていても、私たちは、あくまで、信仰の原則的なイメージを曲げてはならないと思う。そして、この世とあらゆる面で戦い、その一つ一つに常に勝利していかなければならないと思う。キリストは、「すべての国民を弟子とし・・・」と言われたのだから。

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