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2009/01/14

勇士の行動

エズラ記 第8章
 アルタクセルクセス王はエズラに、イスラエルの神の律法とペルシャの律法の両方に従うように民を治めることを命じた。しかしそれには、少しばかり無理があった。例えば、神殿に仕える者たちは、モーセの律法では、捧げ物を受ける方であり、納めることはなかった。そこで、アルタクセルクセス王は、彼ら神殿に使える者たちを納税の義務から解放する政策をとった。もちろん、征服者と非征服者という関係においては、ペルシャの律法は、モーセの律法の上にあるのだが、このような信仰上のことに関しては、モーセの律法が優先したのである。それは、アルタクセルクセス王が言ったように、「イスラエルの神の怒りが、ペルシャ王とその子孫の国に下らないため」なのであった。
 エズラは、彼と共にエルサレムに上って行こうとする家長とその一族たちを集めた。それは、アルタクセルクセス王がこう言ったからである。すなわち、「わが国にいるイスラエルの人々、祭司、レビ人で、イスラエルに行くことを望む者はだれでも、あなたと共に行ってよい」と。これは、エズラにとっては、たぶんありがた迷惑であったろう。いったいだれが、この重要な任務を負っているときに、希望する者を誰でも連れて行くであろうか。彼はきっと、自分の望むような、有能で従順な者たちだけを連れて行きたかったことだろう。しかし、王の命令は、「望む者は誰でも」であった。あるいは、エズラが王に特別にお願いすれば、王の命令をその運用において、柔軟に変更することも可能だったのかもしれない。しかしエズラは、そんなやぼなことはしなかった。そうすることは、アルタクセルクセス王の威厳に傷をつけることになるからである。それよりもむしろ彼は、「わが神なる主の御手の加護によって勇気を得、イスラエルの中でわたしと共に上って行こうとする頭たちを集めた」のであった。これが神の勇士の行動である。私たちは、ともすると社会の中で、機嫌の悪い、お高くとまったクリスチャンでありがちである。それは、自分の立場を過度に防衛するためでもあるのだが、良く考えてみると、それが不信仰から出ていることがあるかも知れない。しかし私たちは、「神なる主の御手の加護によって勇気を得」、人々に寛大になることができる。そしてそれがときに、エズラのように、神により世に勝つこととなるのである。
 エズラは、彼と共に上って行こうとする者たちを、アハワ川のほとりに集め、3日間の野営をした。彼は、この野営により、彼らを観察し、神が彼らを整えてくださることを期待したのだろう。そして、それらの集団の中に、レビ人がいないことを知り、信頼できる指導者たちをカシフヤというところに遣わして、レビ人を派遣してくれるように要請した。果たして、慈しみ深い神の御手が彼らを助けて、シェレブヤという有能な人物を、その子らと兄弟18人と共に連れてくることができた。そのようにして、他からもレビ人が集められ、すべてが整えられたのであった。

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神の主権

エズラ記 第7章
 神殿が完成した後、エズラがバビロンから上ってきた。エズラは、モーセの律法に詳しい書記官であり、アルタクセルクセス王は彼に、王自身と顧問官からのイスラエルの神への捧げ物と神殿における祭儀のために必要な物を買うための金銀を託し、さらに彼宛に親書を送り、他の7人の顧問官と共にエズラに、神の律法に従ったユダとエルサレムの事情調査等の使命を託した。つまり、いまやエルサレムの神殿建設とそこにおける祭儀の施行、モーセの律法の履行は、ペルシャ帝国の国策になっていたのである。そしてそれは、宮廷の書記官エズラの功績なのである。彼がペルシャで権力を握ったからこそ、アルタクセルクセス王が彼と彼が属する民族に好意を示したのである。しかし、もう一つ大きなことがある。そして本当は、こちらが本物なのであるが、アルタクセルクセス王の心を捉えたのは、天地の創造主なる神だったのである。その力は、圧倒的に王を威嚇した。そして、その力が流れ出る場所が書記官エズラだったのである。神の力は、ある人を通して働く。神は、この世界に直接ご自身を現すことはされない。神を見てなお生きている人はいないから。しかし神は、人を通して、ご自身を世に現すことがお出来になるのである。しかしそのとき、その人を通して現れ出でるのは、神の主権なのである。そして、この主権が人の心を捉えるのである。それは、まず驚異である。神の知恵がその人と共にあることが実証されるからである。そして次に、力である。その人を支えているのが神であることが明らかになる。最後にそれは、愛である。神の愛がその人を通じて流れ出るのである。この愛と知恵と力、これらの融合したものが神の主権であり、人はそれを知るために生まれるのである。
 しかし私たちは、往々にして伝道において愛しか働かせない。しかしそれでは、エズラがアルタクセルクセス王の心を動かしたような力にはならない。神の主権は、愛と知恵と力であり、これらを分離することはできないからである。主権から分離した愛は、弱さの愛である。生前のキリストがそれを持っておられた。(「キリストは、弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力によって生きておられるのです。」第二コリント13:4)しかし復活のキリストは、主権を持っておられるのである。(「聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです。」ローマ1:4)
 そこで私たちは、この神の主権によって伝道に進むべきである。なぜなら、私たちは、神の軍隊であり、一人一人は、主イエスの僕だからである。そして、それこそが「神共にいます」(インマヌエル)ということなのである。

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